日本時代の学校 大学

2019年5月10日金曜日

台湾の空の下

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「台北帝国大学正門守衛室」 (現)国立台湾大学守衛室
【建物】1931年(昭和6年)竣工   市定古跡
【設計】総督府営繕課
【場所】MRT公館駅徒歩5分    台北市大安区羅斯福路4段1号
 東京、京都、東北、九州、北海道の各帝大に続き6番目の帝国大学として1928年(昭和3年)に設立。当初は文政学部と理農学部の2学部でスタート。
校門入口から椰子の大通りがまっすぐ伸び突き当たりに図書館、左右に校舎が配置されている。台北大空襲(S20.5.31)の被害を免れ開校当時の変わらぬ姿を保っている。
台湾の明日を担うエリート達が学ぶ最高学府正門

「 台北帝国大学 行政大楼」
【建物】1928年(昭和3年)竣工  市定古跡
【設計】総督府営繕課
 年中、前庭には花が咲き乱れ建物の美しさを更に引き立てています。

「台湾大学 文学院」
【建物】1929年(昭和4年)竣工  市定古跡
【設計】総督府営繕課
荘厳な雰囲気のする建物です

「台湾大学 図書館」
【建物】1929年(昭和4年)竣工  市定古跡
【設計】総督府営繕課
 巨大な建築物に度肝をぬかれる

「台北帝国大学前身高等農林学校作業室」 (現)台湾大学農業試験場
【建物】1925年(大正14年)2/28竣工   市定古跡
【設計】
【場所】MRT公館 台湾大学構内
 日本時代から農業研究は本校の重点研究の位置づけで、この研究所で「台湾蓬莱米の父」と言われている磯永吉博士が蓬莱米を作り上げました。



 蓬莱米の父・永吉博士

「台北帝国大学医学部付属医院」 (現)台湾大学医学院附設医院旧館
【建物】1924年(大正13年)竣工   市定古跡
【設計】近藤十郎 
【場所】MRT台大医院駅前  中正区中山南路3号
【建物変遷】1895年(明治28年)台湾統治直後、大日本台湾病院設立。
      1897年(明治30年)現 在地に木造病院を建設。
      1924年(大 正13年)台湾総督府台北病院として現在の建物竣工
      1938年(昭和13年)台北帝国大学医学部付属医院と改称。
赤レンガ、ルネッサンス様式で建てられた「台北帝国大学医学部付属医院」は80余年の歴史を閉じること無く、現在も受付や診療部門の一部として使用されています。建設当時、東アジア最大の病院施設であった。
同時期の建物には1918年竣工(大正7年)の大阪中ノ島公会堂、1914年竣工(大正3年)の東京駅、1919年(大正8年)竣工の「旧・台湾総督府」などがあります。

「台北州立台北工業学校図書館」 (現)国立台北科技大学「紅楼」
【建物】1918年(大正7年)竣工   市定古跡
【設計】
【場所】MRT忠孝新生徒歩5分 台北市大安区忠孝東路3段1号
台湾の工業大学の最高学府、数多くの企業家を輩出している。日本の東京工業大学と云 ったところか。この建物は日本時代図書館書庫として使用されていた。

「総督府台北商業学校」
【建物】1919年(大正15年)竣工   市定古跡
【設計】 
【場所】MRT善導寺駅徒歩10分。中正区徐州路21号。 
1919年(大正8)に台湾総督府によって「本島の内外において商業に従事せんとする男子の為」 に設立された旧制専門学校(台湾総督府台北商業学校)です。 敷地内には校舎に囲まれてた美しい日本庭園が有り、卒業生の「石橋正嗣」氏や「川平朝清」氏も池の畔で青春を語った事でし ょう。
「石橋正嗣」=日本社会党委員長・元衆議院議員 
「川平朝清」=NHK沖縄放送協会初代会長
現在、同校舎を使用している「国立台湾大学法律学院」「国立台湾大学社会科学院」は台 湾大学法学院(部)から分離したものです。

「旧制台北高等学校・講堂」 (現)国立台湾師範大学
【建物】1929年(昭和4年)竣工  市定古跡
【設計】井出薫
【場所】MRT古亭駅徒歩10分  台北市大安区和平東路1段162号
元総統の李登輝、実業家の邸永漢、生物地理学者の鹿野忠雄氏らが卒業生に名を連ねている。 台湾中のエリートが集まる学舎で、卒業生は東大、京大に進学した者が多い。
1922年(大正10年)創立、旧制高校全38校の内、 最も南に位置する学校。

学校の正門をくぐると真ん前に蒋介石像が立てられている光景をよく目にします。ここ台湾師範大学も同様でしたが今回訪れた時には撤去されていました。
行政大楼(20110415撮影)
講堂

「台湾総督府医学専門学校」 (現)台湾大学医学院旧館
【建物】1907年(明治40年)竣工   市定古跡
【設計】近藤十郎 
【設立】明治31年(1898’)台湾総督府医学専門学校設立
【場所】MRT台大医院2番出口徒歩5分  台北市中正区仁愛路1段1号
本島人(台湾人)対象とする唯一の高等教育機関。(現)
国立台湾大学医学部の前身校
明治の文豪「森鴎外」の長男「森 於菟」ゆかりの大学です。1924年欧州留学より帰国し母校東京帝国大学医学部助教授を経たのち渡台し1945年の終戦まで台北帝国大学医学部教授を勤めた(昭和11年台北帝大教授に就任)。 父親の「森鴎外」も4ヶ月ほどの台湾勤務であったが1895年(明治28年)5月に、初代台湾総督「 樺山資紀」等とともに台湾に任じている。親子2代、台湾に縁のある家族だ。 
戦後は1947年まで、台湾大学医学院教授・医学部長として在職していた。戦後、日本人は全て内地に引き揚げなければならなかったのですが国民党政府が必要とする鉄道技術者や教育者などの人材は残された。 当時の「森 於菟」の講義を知る人は中国語(北京語)での講義を要請されてい たのですが最後まで台湾語で通したと語っています。本人は北京語も堪能だたそうです。 現在の建物は1930年の館内火災で改修工事が施され建設当初の姿は失われています。
古跡認定の建物は現在ミュジアムとなっている。


建設当初の建物

「台南高等工業学校校舎」
「日本軍歩兵第二連隊営舎」  (現)国立成功大学
【建物】市定古跡
台湾の名門「国立成功大学」の前身は1931年(昭和6年)に開校した台南高等工業学校である。名前は 台湾の民族的英雄「鄭成功」にちなんでいる。
キャンパス内には台湾歩兵第二連隊司令部の3棟の建物が保存され現在も校舎として使われている。
第二連隊の司令部として使用されていた「大成館」
IMGP7386.JPG
本部長官と幕僚の事務室として使用されていた「歴史学系」校舎



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自己紹介

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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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