日本の“マイコン”黎明期である1970年代末期〜1980年代前期、日本の“マイコン”業界を引っ張った若者達。
当時はパソコンと言われる言葉は無く”マイコン”と言われていた。
原真とマイコン業界
- 原真は、当時CQ出版に編集者として努めていた星正明と早稲田大学の学生西和彦を結びつけ、のちに日本最古のパソコン月刊誌『I/O』を創刊する『工学社』創立に深く関与し、その編集にも多大の貢献をすることになります。
- その後、星正明と袂を分かった西和彦は、下宿先の大家さん郡司明郎、原真が紹介した電通大学生の塚本慶一郎の3者で『アスキー出版』を設立します。ここでも原真は人材の手当やら取材先、寄稿者の紹介等の手を差し伸べています。自身も月刊誌に寄稿し応援しています。
- 原真は自身の事業が忙しいにも関わらす生来の面倒見の良さで『工学社』『アスキー出版』の立ち上げに立合い、スムーズな船出に尽力しています。
- 原真は、電通大卒業後、友人数人と起業し、当時のマイコンボード TK-80用の周辺装置を世に放った。その時の役員の一人が西和彦と、原の同級生の野村弘治です。そこそこに順調ではあったが、ミュージックシンセサイザの製品化でつまずき、大赤字を生みます。
- しかし世の中良くしたものでピンチのあとのチャンスが訪れます。それは1978年、空前の大ブームとなったインベーダーゲームの出現です。このブームは1年半足らずで終焉を向かえますが、この間に計50万台が日本中に出回るす凄まじい現象でした。この現象に素早く反応した原真は、インベーダーゲームの互換機製造とそれに使う半導体のブローカービジネスをおこない一挙に会社を黒字転換させます。
- このインベーダーゲームに別の形で関わった人物がいます。孫正義です。当時カリフォルニア大学バークレー校の学生だった彼は、日本のブームが過ぎた頃、余剰となったゲーム機をアメリカに持ち込み現地のレストラン等にリースするビジネスを始め、半年間で億を超える金を稼ぎます。
- 原真はその後パソコンの元祖のひとつ「Apple II」関連の周辺装置の製造販売と輸出入へと順調に事業展開させていきます。「Apple II」ボードを改良した「KEGANI」ボードなども世に放ちます。そして「Apple II」互換機や周辺装置(フロッピードライブ)などを台湾に大量に輸出します。これは Acer (当時はMultitech) などの台湾企業が世界的パソコンメーカに発展するきっかけとなります。まさに台湾 IT業界の母です。
- 逸話には事欠きませんが、まだガレージ企業時代のビル・ゲイツ(マイクロソフト)にプロジェクトの先払名目で資金援助をしています。このような人情家の面も原真は持ち合わせています。そのお金は戻って来なかったらしい。
- 原真はIBMの互換機がまだ珍しかった1984年頃(日本のNEC98時代)、IBM PCの互換機を秋葉原で製造開始しシティーバンクなどの外資系企業や海外に販売します。
- さらなる飛躍を目指し海外拠点に台湾を選びアップルの互換機製造会社を仲間数人と立ち上げます。が、ブロジェクトはアップル社の妨害(訴訟)にあい会社の存続が厳しくなり新竹科学園区のアメリカ系企業に買い取ってもらいノートPCのEMSで再スタートをします。
- 因みに原氏は、日本ではIBM から会社の代表者として、台湾ではApple USA から役員の一人として「知的所有権侵害の疑い」で、訴訟されています。日本IBM とは良い条件で和解しますがApple とは訴訟になります。これには勝訴し、Apple に勝訴した珍しい事例となっています。このような事も有り IT 業界には必須の知的所有権の法律問題に関しても見識が有り後進の指導に生かしています。
- 1980年代までは日本は台湾へ製品や部品の供給元で、最終組み立てとケースを台湾でして、台湾から国外へも販売する産業が成り立っていました。ところが1998年頃から部品も台湾で作り出し最終製品を日本が購入しています。この構造変化を受け、某日本大メーカーのPCの台湾調達プロジェクトや秋葉原のパソコンショップの東証マザーズ上場を支援しています。
- 台湾がIT先進国になるのを見越し拠点を台湾に移す先見眼は業界を知り尽くした原真の面目躍如です。独特の嗅覚で業界のメインステージに立ち続ける原真が放つ次なる標的のkeywordsは IT弱者救済です。
写真はある雑誌に取り上げられた原真氏の記事
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