台湾の下地を作った第4代台湾総督『児玉源太郎』/ 台湾に残る明治大正

2021年2月13日土曜日

台湾の空の下

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日台関係を語る時には、第4代台湾総督『児玉源太郎』と第4代民政長官『後藤新平』は絶対に外せない人物です。

第4代台湾総督児玉源太郎

  • 1898年(明治31年)2月26日 第4代台湾総督に就任する。
  • 1906年(明治39年)4月離台する。
  • 歴代台湾総督のうち唯一日本国内の軍政の要職を同時に兼任していた。(8年の任期中に陸軍大臣、内務大臣、陸軍参謀総長次長等を兼任している)
  • 故に台湾には不在がちであったため台湾総督としての実務は後藤新平民政長官によって行われ、「児玉総督時代」ではなく「児玉・後藤政治」という言葉が使われている。
  • ちなみに台湾総督在任は初代樺山資紀1年1か月、2代目桂太郎4か月、3代目乃木希典1年4か月である。これをみても児玉源太郎の総督時代は8年と長く、この期間に台湾の下地ができた事が分かります。

児玉源太郎の軍歴

明治3年(1870) 軍曹として陸軍に入隊。
明治7年(1874) 佐賀の乱には陸軍大尉として従軍。
明治9年(1876) 熊本鎮台准参謀時、神風連の乱を鎮圧
明治10年(1877) 同鎮台参謀副長(少佐)。西南戦争に従軍、熊本城籠城戦に参加し西郷隆盛率いる薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を守り抜いた。
明治31年(1898) 陸軍大学校校長、陸軍次官などを経て第4代台湾総督に就任する。この間、第4次伊藤博文内閣の陸軍大臣や第1次桂太郎内閣の内務大臣などを兼任する。

台湾での児玉の業績

  • 児玉は台湾総督に就任すると、弱冠42歳の後藤新平(後の東京市長)を台湾総督府の民政長官に抜擢する。
  • 最初に台湾の行政機構の大改革を実施する。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化し、同時に県知事、署長以下の人員整理を断行、勅任官以下1080人の官吏を罷免した。
  • 約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組んだ。
  • 経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の「新渡戸稲造」を迎え、さとうきび栽培などの生産を飛躍的に増大させた。

台湾総督の8年間(明治31年月~明治39年4月)の間に断行した諸政策

  1. 西部縦貫鉄道
  2. 基隆港築港
  3. 通貨・度量衡整備
  4. 統計制度確立
  5. 台北医学校設立
  6. 予防注射強制
  7. 下水道整備
  8. 衛生状態改革
  9. 土地所有の権利確定
これらの事業経費は約6,000万円に上り、明治31年当時の日本の国家予算が約2億2,000万円だった事を考えると莫大な資金が台湾に投下されている。
事業経費については『後藤新平』の記事を参考にして頂きたい。

偉業を感じ取れる場所

国立台湾博物館(台湾総督府博物館)
台南市の古跡「旧日本軍歩兵第二連隊官舎群」等多数



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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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