台湾総督府博物館 (現)国立台湾博物館

2019年4月11日木曜日

台湾の空の下

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「児玉源太郎・後藤新平記念館」
【建物】1913年着工1915年(大正4年)竣工   国定古跡
【設計】総督府営繕課長野村一郎
【場所】MRT台大医院駅  台北市襄陽路2号 228和平公園

この台北で一二を争う豪華な建築物は「児玉総督、後藤民政長官記念館」の名により建築計画された。 第4代台湾総督「児玉源太郎」が1906年(明治39)7月に急死。その民政長官であった 「後藤新平」も台湾を離れることになり、同年9月に台北新公園(現・二二八和平公園)において後藤新平離台送別会が行われた。その席上、卓越した植民地経営の偉業を記念し児玉及び後藤記念館を建設することが決定され、故・児玉総督及び後藤民政長官記念営造物建設会が設立された 。
 台湾統治の初期の総督府には財政の余裕はなく、記念館建設にかかる膨大な費用の捻出は募金という手段を使い最終的に256,101円を集めた。建設地は、商業や金融の中心であった城内の表町が建設地として選択され、庶民信仰の媽祖を祀った「天后宮」や台北病院宿舎や専売局宿舎などの 建築物があった台北新公園の北側が選ばれた。現在の博物館の裏手にある日本式池と西洋式池の間に建っていた「天后宮」は1911年の夏季、次々に襲う台風と水災で壊れた。 1908年「台湾総督府博物館」の初代館長となった川上瀧弥には壮絶な物語がある。

1903年(明 治36)新渡戸稲造の紹介で台湾に渡った川上瀧弥は台湾各地や彭佳嶼蘭嶼、澎湖諸島のような離島を周り、数多くの優れた研究を残し、それまで西洋植物学界にとって未知の世界だった台湾のベールを取り除いた。 川上の名前が付いている植物は40数種類に達する。1897年(明治30)に阿寒湖の尻駒別湾で発見された緑藻に「マリモ」の名をつけた人物としても有名だ。 1913年4/1着工した記念館は、1915年(大正4年)3/25竣工した。そして同年の5月、「故児玉総 督及び後藤民政長官記念営造物建設会」会長は、この記念館を総督府に引き渡し名称も「台湾総 督府博物館」と改められた。「台湾総督府博物館」(台湾総督府民政部殖産局付属博物館)は縦 貫線鉄道開通の記念事業として1908年(明治41)創立されている。 川上瀧弥はこの1915年の5月から始まった新館への引っ越しに際し、病状をおし博物館内にベッドを持ち込み、引っ越しの準備をしていたということだ。1915年8/20「台湾総督府博物館」新館の開館が行われた翌日、享年44歳の若さで人生の幕をおろした。この余りにも壮絶な死に対し総督府は殉職として台北植物園内の建功神社に追祀した。旧・博物館の位置は現・総統府の裏手にありましたが、空襲で焼け落ちた。 博物館の落成時から、2階は歴史室と動植物室、1階は高砂族室と中国・華南地方の南洋地質、 鉱物室となっており、このことは1915年(大正4)8/20の開館から今も変わらず引き継がれております。 建築様式は中央に高いドームのある左右対称の豪華絢爛なルネッサンス様式だ。地上2階、地下 1階、背面は公園が見えるように全面にベランダが設けられている。入り口を入ると、吹抜けの開 放的な玄関ホール、円形のステンドグラス、モザイク床、石をふんだんに使った内装など、装飾の豪華さに目を奪われる。 1階ロビーの両側のアルコープには、左に児玉総督、右に後藤民政長 官の立像が置かれていた(新海竹太郎の制作による)。戦後に立像は撤去され、博物館の収蔵品 となった。

【児玉源太郎】 
第4代台湾総督(1898年2月〜1906年4月)。陸軍軍人(1852年生〜1906年: 明治39年没)。 
【後藤新平民政長官】 
児玉源太郎総督時代の民生長官。植民地行政官(1857年生〜1929年: 昭和4年没)。
離台後、南満鉄(株)の総裁に赴任した。 日本による台湾統治開始から第3代総督の時代(樺山資紀、桂太郎、乃木希典)までは強権的な支配で反乱などが多かった。第4代台湾総督児玉源太郎の時代になるとその民政長官、後藤民政長官の進言(恩威並施)により、土地改革、衛生環境の改善、アヘンの根絶対策、学校教育の普及、製糖業・水力発電事業などの産業の育成が行われ、台湾発展の基礎が築かれた。ただし反乱などには徹底した弾圧が加えられた。

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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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