日本も麻薬を製造していた時期が有ったんですよ。しかも国策で。
日本時代の1899年に建設された「台湾総督府専売局台北南門工場」は東南アジアで最大規模を誇った樟脳やアヘンの製造工場であった。
なぜ日本が阿片を製造していたか
1898年(明治31年)、第4代台湾総督(明治31年~明治39年)として児玉源太郎が就任する。児玉源太郎は内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。
日本の領台当時は阿片の吸引が蔓延していた。
後藤新平は流行していた阿片を撲滅すべく阿片を禁止するのではなく「阿片漸禁策」を考案し阿片吸引を免許制とした。阿片を専売制にし段階的に税を引き上げ、新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放した。
結果
阿片は撲滅され、更にはその潤沢な税収によってインフラ整備も成し遂げた。工場跡
日本の敗戦により台湾の統治者が変わりました。時を経て1967年の樟脳事業民営化にともなって工場は廃業され、その後は荒れ地となっていました。
2010年代になり、歴史建造物の活性化をはかる文化部の事業により修築が進められていた。5年にわたる修復を経て2013年11月、国立台湾博物館「南門園区」として生まれ変わり一般公開されております。
台湾の樟脳産業の歴史に立ち会ってきた「南門園区」は「小白宮」と呼ばれるかつてのアヘン倉庫や「紅楼」の呼び名で知られる樟脳倉庫、および貯水槽からなり、敷地面積は約1600坪余りあります。
このうち「小白宮」は教育推進や会議開催の場として、「紅楼」は展示エリアとしてそれぞれ活用されております。
広場でイベントが開催されていました。
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