台湾が忘れてはいけない228事件。
台湾には日本語世代の人達が集まる「友愛会」というグループが有ります。そこで郭振純さんと知り合いになって以来、親しくしていただいた私は台湾で初めて心を許せる兄貴の様に慕っておりました。
本当に色々なお話しをしていただきました。幼少期のお話、戦中のお話、一緒に捕らえられた彼女との獄中での別れ、遺髪を木の下に埋めた話、火焼島の獄中生活での話などなど、ご自身の戦後史をお会いするたびに訥々と語られる姿を今でも思い出し涙いたしております。
月日の経つのは本当に早いものです。2018’ 6/28永眠された日から、はや二年目の命日を向かえようとしております。そんな事を思い出した日の朝、郭振純さんを思い出しながらこのブログを書いています。
1925’大正14年に台南で生を受けた郭振純さんは、1953’昭和28から1975’昭和50年まで22年2か月の気の遠くなるような日々を火焼島(緑島)で獄中生活を送られました。
その時に書かれた誌をCDにされています。
私はこの頂いたCDを宝物の様に保管してますが、多くの人に台湾建国の闘志「郭振純」さんを知っていただきたくYoutubeに載せました。
火焼島(かしょうとう)に生きる 作詞 郭振純
(一) 黒潮洗う磯踏みつけて
たらちねの母よと見やる月影に降る流星(ほしの)雨(あめ)
こぼるる母の涙花
ああ火焼島の夜は呪わしき、ああ火焼島の夜は呪わしき
(二) 建気((けなげ)に匂う野百合手折(たお)りて
生ける窓辺に月明かり
揺り籠揺らす御手紛(まが)う
微(かす)かに聞こゆあの子守歌
ああ火焼島の夜はいと長き、ああ火焼島の夜はいと長き
揺り籠揺らす御手紛(まが)う
微(かす)かに聞こゆあの子守歌
ああ火焼島の夜はいと長き、ああ火焼島の夜はいと長き
(三) 焼け付く珊瑚礁(いし)が肩に食い込む
酷(むご)き仕置きの明け暮れを
めげずに強く生き抜きて
止まらぬ母の涙拭(ぬぐ)わん
ああ火焼島の夜は長くとも、ああ火焼島の夜は長くとも
酷(むご)き仕置きの明け暮れを
めげずに強く生き抜きて
止まらぬ母の涙拭(ぬぐ)わん
ああ火焼島の夜は長くとも、ああ火焼島の夜は長くとも
動画
(注)youtubeのタイトルは私が勝手に付けた物であり郭振純さんの誌名ではない事をお断りしておきます。
映像には若かりし日の郭振純さんと銃殺に処せられた許婚が映されています。あとがき
ご存命の頃の郭振純さんは景美人権博物館で歴史の生き字引としてボランティアガイドで活躍されていました。博物館の庭には戦後渡られたコロンビアでコーヒー農園を経営されていた時の一粒の種から大きく育った珈琲樹が有ります。赤くみのった実を一粒つまみとり「食べってみろ、甘いぞ」と言われ口に含まれている姿が昨日のように思い出されます。コロンビアの大地を思い出されていたんでしょうね精神も立ち居振る舞いも日本武士そのものでした。(寂)
是非是非早い時期に「景美人権博物館」を訪れていただき珈琲樹に手を合わせていただければ郭振純さんも喜ばれると思います。
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