シャンパンの精神的な父 Dom Pérignon

2025年1月14日火曜日

Champagne Cremant Blanquette Wine雑学

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Dom Pérignon は、ワイン作りを通して Hautvillers 修道院を立て直そうと考えワインの品質向上に情熱を注いでいました。そのような日々のなかで偶然、瓶内発酵が起こり炭酸ガスが発生し泡立つワインを造り出すことに成功したと言われています。

しかし、それを裏付ける史実も無くシャンパンが流行り始めた頃、Dom Pérignon を事実よりも誇張して扱った為に多くの伝説が作られた。そしてこれらの話は、ずっと後の19世紀後半になってから広まったものです。

できるだけ多くの古文書を紐解いて Dom Pérignon と Champagne の関係にせまりました。 

時を超え躍動する Dom Pérignon 伝説


Dom Pérignon と Hautvillers の泡
  • Hautvillers  は、シャンパーニュ地方の中心部にあるシャンパンの歴史と文化が深く根ざす美しい村です。Dom Pérignon は、17世紀に修道士として Hautvillers 修道院で働いていました。Dom pérignon が働いていた修道院は、現在も観光スポットとして多くの人々が訪れています。

  • Dom pérignon は、ワイン作りを通して修道院を立て直そうとと考えワインの品質向上に情熱を注ぐなかで偶然、瓶内発酵が起こり炭酸ガスが発生して泡立つワインを造り出すことに成功したと言われています。

  • ある修道士が生涯の終わりに宗教的な観点から書き留めたという Dom Pérignon が死ぬ直前に語ったレシピがあります。このレシピは、あくまで伝承として伝えられてきたもので、現代のシャンパン製造においては一般的に使用されていません。「ワイン約500mlに対し、砂糖菓子約450gを溶かし、 種を取った桃5~6個、粉末にしたシナモン、ナツメグを加えて混ぜます。そこに、風味の良いブランデーを約230ml注ぎます。これを布で濾しワインに戻します。この作業をワインの樽ごとに行う。こうすることで、ワインはより繊細で熟成された味わいになる。」

  •  Dom Pérignon がシャンパンを造ったという話は、実は1821年に Dom Pérignon が働いていた修道院の最後の会計係り Dom Jean-Baptiste Grossard が、Aÿ 市の副市長 d'Herbes 氏に宛てた手紙に『 Dom Pérignon がシャンパンを造る方法を発見した』と書いています。この手紙以前にシャンパンの発明に関する記録が無いので Dom Pérignon がシャンパンの発明者だという話になり、シャンパンが流行り始めた頃、彼を実際よりも特別な人物として扱った為に多くの伝説が作られます。これらの話は、ずっと後の19世紀後半になってから広まったものです。
  • フランス革命時に解体された Hautviller 修道院の最後の procurator の Dom Jean-Baptiste Grossard は、『Dom Pérignon が、瓶を開けずにスパークリングワインを造り、それを澄ませる秘策を発見したのです。これ以前は、私たちの修道士は、灰色または藁色のワインしか造ることしか出来ませんでした』と初めて公にし、Dom Pérignon がスパークリングワインの父であるという考えを言っています。更に Dom Pérignon がコルク栓を使用した最初の者であったと主張したが、これは誤った主張で、Dom Pérignon が Hautvillers に到着する以前からシャンパーニュ地方で既に使用されています。
  •  Dom Pérignon 修道士のワインに対する愛好心、深い知識、鋭い観察力と研究心、そして僧侶的な貪欲さが、この自然現象の研究を促したのでしょう。しかし、科学がようやく誕生したばかりでワインの物理的・化学的性質もほとんど知られておらず、発酵に関する誤った考えしか持たれていなかった時代に、Dom Pierre がシャンパンを造ることができた事は本当にすごいことです。
  • しかしながら、70歳を過ぎた理性的な人物 Dom Pierre が、修道院に確実な利益をもたらすことが難しいリスクを伴う生産事業に着手したとは考えられない事だというのも事実です。当時のシャンパンは、収穫量の不規則さと生産技術の未熟さにより、品質と量が安定せず、非常に不安定なワインであっただろうと推測されます。それを裏付ける資料として Dom Pierre 逝去からほぼ120年後の1833年の Épernay における破損率は依然として35%、1834年には25%に達し、生産量が少なく販売価格が高騰したたという Moët & Chandon の記録が残っています。
  • 1713年、修道院の財務担当者の死の2年前に Hautvillers  修道院の地下室と貯蔵庫の在庫目録が作成され Marne 県の公文書館に保存されている。そこには、ポワンソン(白ワイン用の容量は178~184リットル、赤ワイン用の容量は201~206リットル)と呼ばれる樽に保管されている古酒と新酒のみが記載されています。つまり Still wine(静止ワイン)のみが保管されていたことがわかる。
などなど多くの疑問点は有るもののヴィンテージやブドウ品種をブレンドする技術については Dom Pierre Pérignon に負っているところが大です。


Dom Pierre Pérignon の生涯
  • Pierre Pérignon は、1639年1月上旬に、シャンパーニュとロレーヌの国境にある要塞、アルゴンヌの Sainte-Menehould で司法官僚の家庭に生まれています。彼は1639年1月5日に洗礼を受けており名付け親は Pierre Joseph, Jeanne Pérignon であると教会の登録簿に残っています。

  • 彼の幼少期についてはほとんど知られていませんが、彼の父親はプレヴォテの書記官事務所を監督しており、母親も夫と同じような経歴を持っています。三十年戦争の(1635-1648年)の深刻な時代ではあったが、ある程度の裕福な家庭であったことがわかっています。

  • 彼の誕生から7か月後、母は亡くなり3年後に父親は地元の商人の未亡人 Catherine Beuvillon と結婚します。Pierre Pérignon 少年は、9人家族の裕福な家庭で幸せな子供時代を過ごしています。

  • 彼の父親と彼の父方の叔父の一人はブドウ園を所有しており、そこで彼はブドウの収穫に参加し、ブドウの世話をすることを学んだ可能性があります。



The Prosecutor Dom Pérignon
  • Pierre Pérignon は、多くの文書で Father Procuratorプロキュールや Dom Procurator と呼ばれています。これは、修道院内の法律問題や紛争解決に関与する役割を担っていたり、修道院の財産管理や契約交渉など、法律に関する専門知識を提供していたと考えられます。

  • 1968年に出版された René Gandilhon の著書『シャンパーニュの誕生』の中で、29歳の修道士Pierre Pérignon が担うことになった職務の重要が語られています。この本は、シャンパンの歴史と製法について詳しく解説したもので、Dom Procurator をはじめとするシャンパンの発展に貢献した人物や出来事について、豊富な資料に基づいて記述されています。シャンパンの歴史研究において重要な文献とされており、現在でも多くの研究者や愛好家に読まれています。

  • Dom  Pierre Pérignonが、毎朝、鍵束と水差しを持って地下室まで水を汲みに行っていたというイメージは、彼の実務の極々一部分で仕事は多岐にわたっていました。
  • 畑の管理、ワインの樽の調達、家畜の売買、契約の締結、税金の徴収、そして修道院や貧しい人々への物資の提供など、非常に幅広い範囲に及んでいます。
  • 彼の日常業務は、畑の生産物の販売や購入、建物の修理、労働者の管理など、現代でいうところの経営者や管理職に近いものでした。
  • これら以外にも、彼を取り巻く人々の様々な問題、例えば、債務者の反抗、農民の無責任な行動、業者の支払いの遅延、そして様々な言い争い事などによってさらに複雑になっていきます。特に、Hautvillers 修道院の教区民や修道院関係者とのやり取りは、彼にとって大きな負担だったと思われます。
  • Dom procureur は、宗教的なことや毎日の仕事は勿論の事、修道院にとって何が一番大切かを良く理解していました。ぶどうをたくさん収穫し、より良いワインを作り修道院を立て直す気概を持ち、ワイン作りに関する細かい作業も嫌がらずに行いました。
  • つまり、ペリニヨン神父は、単なるワイン造りだけでなく、修道院の運営を全て担う、まさに「万能の人」だったと言えるでしょう。

  • 修道院長と、上級修道士によって選ばれた Dom Pierre は、毎月のお金の使い道をチェックされ、3か月ごとの仕事ぶりも詳しく調べられています。修道院長の任期は3年までときめられています。Dom Pierre はなんと47年間も再任されているという驚くべき事実があります。これは、彼がとても良い仕事をしている証拠であり、と同時に Colbertist 主義のフランスにおいて人や土地をうまく管理することは、とても大切なことで、その仕事を任される人は特別な力を持っているという意味でもあります。(Colbertist 主義とは、17世紀フランスの宰相コルベールが推進した重商主義的な経済政策のことを指します)
  • 裁判所文書のおかげで、Dom Pierre が行った様々な手続きについて、正確で面白い、とても重要な事実を見つけることができました。それは、Father Procurator が、今の時代の会社法のようなものをはるか昔に既に理解していたという事です。
  • Dom Pierre は、修道院全員が王の役人の前で面倒な手続きをしなくても済むように、できる限りの簡略化をしています。
  • 同様に、修道院が昔から持っていた複雑な権利関係を整理し、より分かりやすいルールを作り上げます。その結果、修道院は明確な権利を持つようになり、現代の Champagne の生産体制の基礎を築いたと言えます。特に、遠方の土地の権利を近くの土地の権利と交換するなどのルールは、現代の Champagne 地方の土地の所有形態につながる重要な一歩となっています。


Hautvillers 修道院


7世紀中頃の662年、Reims の司教 Nivard と代父 Berchaire は、Épernay市の近くMarne 川のほとりに修道院を建設するという構想を思いついた。以下はReims 教会の歴史家 Flodoard の著書『Reims 教会の歴史』からの引用です。
  • ある日、Nivard と Berchaire は、Épemay からの帰り道、丘の上で一休みした。眼下には広大な景色が広がり、二人は息をのむ美しさに心を奪われます。Nivard は Berchaire の膝にもたれてウトウトし不思議な夢を見ます。鳩が森の中を舞い、ブナの木に止まるたびに、森全体が神々しい光に包まれるのです。 そして Berchaire も、まったく同じ夢を見ていました。二人は、この夢が単なる偶然ではないと感じ、神様からの導きだと確信し、この地に Hautvillers 修道院を建てる決意します。

  • 静けさと美しさに満ちたこの場所は、修道院にぴったりの場所です。神様のメッセージが心に届きやすい、そんな特別な場所だと感じられます。森の中にたたずむ修道院は、Marne 川を見下ろす丘の上に建てられています。川は Châlons 平原を流れ、Ile-de-France 地方の石灰岩の崖の間を深い谷のようにして流れています。

  • かつて修道院の庭として人々に憩いの場を提供していたテラスからは、Champagne 地方が誇る息をのむようなパノラマが広がります。眼下には、何世紀もの時をかけて人々が丁寧に手入れしてきたブドウ畑が、まるで円形の劇場のように広がり、その中心から少し離れたところには、Marne 川が悠々と流れ、緑豊かな谷を作っています。反対側の水平線には、Côte des Blancs と呼ばれる丘陵地帯が、青みがかった霧の中にぼんやりと浮かび、その神秘的な姿を見せてくれます。そして、この美しい風景の中に、Champagne で有名な Épernay の街が静かに佇んでいます。穏やかな自然と歴史が織りなす、まさに絶景と言えるでしょう。

 

1668'の HAUTVILLERS 修道院1668年は、Dom Pérignon が Hautvillers 修道院で活躍し始めた年でもあり12人の修道士たちが、忘れ去られていた修道院の修復に懸命に取り組んでいた。
  • それ以前の修道院では、数々の出来事が起こっています。ノルマン人の襲撃によって輝かしい歴史が中断されたり、中世以降も略奪や火災に何度も見舞われています。
  • 1366年の商工組合連合体による略奪、1449年のイングランド軍による焼討、1544年と1562年の Charles5世と François de Ranouet 副官による破壊などなど。これらに依って修道僧たちは1603年、完全に修道院を放棄することを余儀なくされています。
  • 1668年の春、反宗教改革の急進主義者12人が、この小さな、ほとんど忘れられていた Hautvillers 修道院 の修復にやってきた。彼らは、以前の人々が持っていたような願いと似てはいましたが、少し違うことを目指していました。
  • Hautvillers 渓谷の頂上で Pierre Pérignon を待ち受けていた運命は、自分の信仰よりも、当時の社会の流れに大きく影響されることになります。時代はフランスの財務大臣 Colber による重商主義政策だった。それは、修道士たちが持っていた理想と相反するものだったかもしれません。Pierre Pérignon は、Hautvillers 修道院からのシャンパン地方の美しい丘陵地帯の景色を見ながら複雑な気持ちになった事でしょう。
  • 1668年、Hautvillers に到着した Dom Pierre は、すでに大部分が再建されていた修道院に家具を備え付け、強化し完成させた。Verdun 出身の「神の戦士」は、世俗的なことにもしっかりと取り組み最初から卓越した実業家であることが証明された。
  • 1670年5月30日、Dom Pierre は、Champillon 村の近隣住民と激しい口論の末、殴り合いの喧嘩になった。原因は、村人が修道院の刻印が押された2つの鐘を溶かして新しい鐘を作り直そうとしたことによる。彼は鼻血を流しながらも、村民達から奪い取った聖なる鐘の一つを馬に括り付け Hautvillers への道を駆け上がった。
  • 1672年以降、修道院の建物に加えて、より大規模な工事が必要となりました。外壁を高くし、地下室、納屋、馬小屋、穀倉を建設する必要が出てきます。1692年に建てられた壮大な Sainte-Hélène 門はこの工事を代表するものです。修復された建物の多くは現在も存在し Moët & Chandon が所有しています。
以下は大規模工事の概要です。 
 村の反対側にある西側の Sainte-Hélène 門を過ぎると最初の庭が広がります。庭は、地下室、納屋、馬小屋、屋根裏部屋から教会の正面まで続いています。左側は納屋を通り抜けて庭に通じる通路、右側は Aubroye と呼ばれる2番目の庭に通じる門があり、その真ん中に給水場があります。圧搾機とセラー棟が Aubroye の三方を囲み、最後は修道院の建物となっています。 これらは回廊の三辺にあり、四辺目は教会の前から鐘楼の角までの廊下に囲まれています。仕様書によると、回廊は各辺に8つのアーケードで中庭に面していますが、計画図には短辺に9つ、長辺に10つと示されています。 
 東翼にはチャプターハウス、食堂、台所、階段があり、この建物の1階に図書館があり、それに続く廊下の高さの鉄格子で囲まれています。内部には、壁の前に広がる本棚と「講壇にされた長いテーブル」があります。 
 南翼は仕様書とは異なる使用用途に変更されています。1791年には共同体用の大きなアーチ型の薪置き場と修道院長用の暖炉があり、2階には僧房があり、その一連は西翼に続いています。それらはすべて回廊のように中庭の周りを走るギャラリーに面しています。西翼の端、教会に向かって、壮大な階段が修道院の敷地への入り口へと続いており、それは Aubroye 中庭に面しています。1階の階段近くには門番の住居があり隣に会計係が事務所を構え、門番室の上の階には文書保管室があります。会計係の事務所の先には、外国人、使用人、印刷工用の部屋がいくつかあり、最後に外部の食堂があります。 南側の建物から東に向かって医務室が建っています。この医務室は、傾斜地に合わせて作られた2つの地下室の上に建てられています。医務室と会計係の家をつなぐサービス棟があり、その建物が教会の裏庭を囲むように建てられています。鉄十字はその近くにあります。そして、修道院の南側には、住職が住んでいる建物があります。 
 これらの建物が、単に建てられたという事実だけでなく、建てられた背景にある考え方や、そこで暮らす人々の快適さ、そして美しい装飾など、様々な面からの価値があります。つまり、これらの建物は、単なる建物ではなく、人々の生活や文化を映し出す鏡のようなものなのです。これらの建物に見られる近代的な建築様式や美しい装飾は、中世の教会建築に見られるような神秘的な雰囲気や、厳格な修道院建築の様式とは大きく異なり、むしろ、これらの建物からは、実用的でありながら美しい、都会的、市民的な雰囲気が感じられます。 
 修道院の建物を改修し、新しいものを建てるといった大規模作業は、Dom Procurator 一人の力だけでは成し遂げられたものではありませんが、彼が修道院の発展に大きく貢献したことは間違いありません。 事実として彼は、これらの費用のかかる工事のために自分の私財を惜しみなく提供しています。しかし、当時のキリスト教では、金銭や商売を悪魔と結びつける考え方が根強くあったため、彼は周囲の反対や不信に直面することも多かった。それでも彼は、修道院の兄弟たちがより良い環境で信仰生活を送れるように、必要な施設や条件を整えることに尽力します。

  • Dom Pierre は、修道院に起こるであろう悪い事態を予期していたが、なす術もなく Hautvillers 修道院はその後、大きな変化を迎えます。1789年11月に修道僧たちが追い出され、1年後の1791年3月には、修道院とその土地はすべて売られてしまいました。
  • 礼拝や仕事に使われていた道具類が復元され、修道院の運営にどれほどの資金が必要だったのかがわかりました。これだけ大規模な資金を維持するためには、活発な商いが無いと無理だったと推測されます。そして、様々な観点や証拠から考えて、主とする商材は、ワイン以外に考えられません。
  • Reims 大学の中世史とワイン史の専門家、Patrick Demouy 教授は、住民が減り、ワイン醸造施設が荒廃していた修道院で、再びワインが造られていることに、誰もが驚いていると語っています。

Dom Pierre Pérignon とワイン

 Hautvillers 修道院の Dom Pierre Pérignon が、La Montagne と La Rivière 産のぶどうで造った still wines の生産で 大きな成功を収めたことは有名です。 彼のワイン造りにおいて発泡性ワインの一種 Saute-bouchon を造っていた可能性はゼロではありません。しかし、それはむしろ失敗作だったのではないかと思われます。

 Dom Pierre Pérignon は、シャンパンの製造方法である『瓶内二次発酵』だけでなく、シャンパンを世界に広める貿易そのものを確立した人物なのです。つまり、シャンパンの製造方法よりも、シャンパン・ビジネスを大きく発展させたという点で、彼はより重要な役割を果たしています。そのため、多くの人々が彼をシャンパンの発明者と呼んでいるのです。

 シャンパンの発明者として有名な人物の物語には、多くの作り話や誇張が含まれています。これらの物語は、歴史的事実に基づいているのではなく、後の時代の商人たちが、誇張したり脚色したり自分達の都合の良いように作り上げたものです。

 Dom Pierre Pérignon は、シャンパンを単なるお酒としてではなく、高い品質と特別なイメージを持つものとして世に広めた人です。それは prise de mousse(シャンパンの瓶内二次発酵により泡が発生するプロセス)の発明よりも、もっと広い範囲でシャンパンの価値を高めたと言えるでしょう。

Dom Pierre Pérignon とブドウ畑・栽培・収穫・醸造

 修道院長代理 Dom Pierre Pérignon の大事な仕事は、常に自分の畑を可能な限り最高の状態に保つことであった。

ワインを造り、販売する前に、ブドウという原料を栽培し、収穫しなければなりません。 Dom Pierre Pérignon のブドウ栽培に関する具体的な記録は、ほとんど残されておらず推測するしかありません。しかし、彼の弟子であり後継者である Pierre の著書や、彼の死後に発表された匿名な著者による論文から、ある程度のことがわかります。

  • Dom Pierre Pérignon が栽培するブドウ品種は、パリ周辺で最高のワインを作ることで知られる現在のピノ・ノワール、シャンパーニュで非常に優れたブドウとして知られる現在のシャルドネ、シャルドネやピノ・ノワールの酸味やミネラル感を補いシャンパンにボディとボリュームを与るミュニエの3品種です。
  • Dom pérignon は、ブドウ畑の改良に際し、適切な量の堆肥と新しい土を加え、土壌の過剰肥沃化に注意を払いました。過剰な肥料はワインを薄味にし、深みや複雑な味わいを損ない、すぐに飽きるワインを生み出すからです。また、土壌温度の安定化のため、牛糞のみを使用し、馬糞は使用しませんでした。牛糞は発酵熱が穏やかで、ブドウの根が熱のダメージを受けるのを防ぐのに適しています。そして、堆肥と新しい土を混ぜ合わせ、冬の間じっくりと腐らせるための貯蔵庫を用意しました。
  • Dom Pierre Pérignon は、老朽化、過度の収穫、劣化、実を付けなくなった等の理由に関わらず定期的にブドウの木を引き抜いています。Dom Pierre Pérignon は、ブドウの木を常に健康な状態に保つために、毎年一部の古い根を掘り起こし、新しい根を生やすことを推奨していたと考えられます。
  • Dom Pierre Pérignon は、ブドウ畑の空きスペースで、provignage(ブドウの挿し木の一種で、既存の株から新しい株を育成する方法) という方法で新しい株を育てました。数年かけて丁寧に育てた後、肥料をやめ、より繊細なワイン用のブドウを収穫できるように管理しました。
  • 量と質は両立しないを基本コンセプトにおいて、大量生産を優先する一部のワイン生産者のようにブドウの木を過度に管理することはしなかった。伝統的な手法を守り、大量生産よりも品質を重視しています。剪定は2月18日以降の霜や雨の心配がない穏やかな日に作業する、特に3月に行うのが最適だと考えていました。
  • 時折、他の作物の生育を妨げるススキなどの植物を引き抜き、葉や茎を取り除いた後にブドウの木から少し離れた場所で燃やし灰は土に埋め戻しました。
  • 春の訪れとともに労働者を雇い土壌をしっかりと耕し、密集しているぶどうの株を間引きします。そして、各ぶどうの木に四半割にしたオークの心材で作られた支柱を立てぶどうの木を支えます。ぶどうの木を支柱に固定し形を整えた後、畑を耕し、芽の先端を切り詰めます。その後、樹液を有用な部分に集中させるために剪定と摘芽を行います。
  • 結束作業後、再度、土を耕し踏み固められた土を柔らかくします。その後、つるを適切な長さに切り揃え結束し直します。さらに、約3週間後にツルを剪定することで、ブドウが健やかに成長できるよう促します。
  • 8月は、畑を耕し2回目の剪定と生えた雑草を取り除きます。2回目の剪定は、ぶどうが十分に日光を浴びて甘く熟すために必要で高品質なワイン作りには欠かせません。また、土壌を暖め、雑草や害虫の発生を抑える効果もあります。
  • 9月末が近づくと、ブドウの収穫時期を迎えます。Dom Pierre のワイン造りは、一般的な手法とは異なる点が数多くあります。一般的に黒ブドウからは赤ワインが造られます。彼は黒ブドウから無色の白ワインを造る非常に特殊な製法に挑戦しています。このため、収穫から醸造に至るまで、細心の注意を払った特別な作業が求められます。
  • ブドウの収穫は、熟成度や色合いなどに細心の注意を払って行われます。特に熟し少し青みがかった粒を厳選します。粒同士が少し離れていて、完璧に熟したものが、最高品質のワインを生み出します(密集している粒は、完熟していません)。
  • ぶどうの実を、小さく曲がったナイフできれいに切り取り、茎をできるだけ残さず、潰さないように丁寧に容器に入れます。腐ったり潰れたり干からびたブドウは、房ごと取り除きます(雨の多い年には、細心の注意が必要です)。
  • 収穫作業は、日の出の30分後から開始します。 天候が良く、太陽が照りつける場合は、9時か10時頃を目安に収穫を中止しキュヴェ作りに移ります。 この時間以降はブドウが熱せられてしまい、ワインの色が赤っぽくなったり、煙のような異臭がつく恐れがあるためです。
  •  ブドウをワインに変える際、圧搾機までの運搬時間が短いほど酸化を防ぎワインの色や風味を保てます。畑近くに圧搾機を設置することは、収穫したブドウをすぐに処理でき高品質なワイン作りに繋がります。遠くに設置すると、運搬中の振動や温度変化により、ブドウが傷つきワインの色が変わりやすくなります。
  • 雨が多く寒い年を除いて、ワインの色づきを完全に防ぐことは困難です。ブドウ収穫後、できるだけ早く圧搾することで、ワインはより白く繊細な仕上がりになります。これは、果汁が果皮に長く触れるほど赤みが強くなります。したがって高品質な白ワイン造りにおいては、収穫から圧搾までの時間を短縮することが非常に重要になってきます。
  • 現在はは否定されていますが、16世紀には同じ畑で黒いブドウと白いブドウを一緒に育て、同じ圧搾機で絞ってワインを作ることは普通に行われていました。
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  • シャンパンの発明者として有名な Dom Pierre Pérignon は、ワイン造りの革新的な方法を考え出しました。それは、様々な畑で収穫された種類の異なるブドウを組み合わせてワインを作るというものでした。これによってワインは、複雑で豊かな味わいになります。この手法は、現在、高級シャンパンを作っている会社で大切にされています
  • Dom Pierre Pérignon は、修道院の敷地内で栽培したブドウ、あるい周辺の村々の多様な Cruクリュで栽培され ※什一税として集められたブドウを修道院の圧搾機で果汁にし丹念にブレンドすることでワインの品質を調和させ、個々のクリュの特性を最大限に引き出していました。これによって複雑かつ奥深い味わいのワインを生み出していました。この独創的なアイデアは、シャンパーニュのスパークリングワイン繁栄の源泉となっています。
  • ※ 什一税とは、中世ヨーロッパにおいて教会が農民から徴収していた収穫量の10分の1の税金のことです。中世ヨーロッパにおいて、ワインは単なる飲み物ではなく、宗教的な儀式や日常の食事にも欠かせないものでした。そのため農民たちは収穫したワインの一部を教会に納めなければならなかったのです。この税金は、教会の運営費や貧困者の救済などに充てられていました。
  • 「Hautvillers の白ワインが有名になったのは、1715年に70歳で亡くなった Dom Pierre Pérignon という人がいたからです。彼は、いろんな種類のワインを混ぜ合わせることで、今まで誰も味わったことのないような、とても繊細で美味しいワインを創れることを教えました。」と1783年にベネディクト会修道士が本に書いています。
彼の弟子であり後継者である Pierre 修道士が残した論文
  • 『 Dom Pierre Pérignon は、ブドウが成熟に近づく時期になると毎日ブドウ園に行きましたが、畑ではブドウを味わいませんでした。代わりに、翌朝まで窓辺で保管し、その味を判断するために味をチェックしていました。彼はこの味だけでなく、その年の天気やブドウの生長の様子なども観察し、それらに合わせて醸造のレシピを調整していました。つまり、毎年、その年にしか造れない、とっておきのシャンパンを造ろうとしていたのです』 『Dom Pierre Pérignon は、高齢になるまで味覚が衰えることのない驚くべき能力を持っていました。それは、ブドウを一口も食べなくても、どの地域のどの畑で採れたのかを言い当てられるという能力です。例えば、彼の畑や Cumièresクミエール村の様々な畑で採れたブドウが、たくさんのカゴに入って運ばれてきた時に彼はそれらのブドウを一つ一つ味わい、どこで育ったのかを当て、さらに、どの種類のブドウと組み合わせれば最高のワインが造れるかまで見分けることができたのです。』


シャンパンのぶどう品種

  • Pinot Noir (ピノ・ノワール): 赤ワインによく使われる品種で、繊細な風味と複雑なアロマが特徴です。チェリーやラズベリーのような赤い果実の香り、スパイスや土っぽいニュアンスを持つものもあります。ブルゴーニュ地方のワインで特に有名です。
  • Chardonnay (シャルドネ): 白ワインによく使われる品種で、幅広いスタイルのワインを作ることができます。フレッシュで柑橘系の風味を持つものから、オーク樽で熟成させて複雑な風味を持つものまで、非常に多様です。ブルゴーニュ地方の白ワインやシャンパンに使われます。
  • Pinot Meunier(ミュニエ): シャンパーニュ地方のマルヌ県やオーブ県で広く栽培されています。シャンパーニュを造る上で重要な役割を果たすブドウ品種です。その早熟性、果実味、ボディは、シャンパーニュに独特の個性を与え、他の品種とのブレンドによって、より複雑で魅力的な味わいのシャンパーニュを生み出します。


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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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