烏山頭に咲く大輪の花「八田與一」 

2022年12月10日土曜日

台湾の風 歴史の窓

t f B! P L
新領土台湾開拓に情熱を注いだ多くの侍がいました。多くの今の日本人が忘れた男のロマンを感じるのは私だけでしょうか。
私の拙文が千葉県教育委員会、高等学校道徳読み物教材集『明日への扉』に採用されました。

 烏山頭に咲く大輪の花「八田與一」 


不毛の大地に立つ男

大正初期 台湾の母なる大地に生命を吹き込んだ男達がいます。
下関条約(1895’明治28年)締結15年後の1910年(明 治43年)新国土開拓の意気に燃えた一人の日本男児が台湾に渡ります。 台湾に渡った八田與一は土木衛生工事、発電・灌漑工事など与えられた職務を次々と全うしていきます。発電・灌漑工事 担当(1916年・大正5年)時には、台北近郊の桃園地区に上流から水を引き込み、溜池をつくり、ここより水路を張りめ ぐらせ22,000haの水田をつくる「桃園埤圳」の設計・監督をおこなっています。 台湾総督府は台湾中部の嘉義から台南にかけての台湾一広大な嘉南平原に大水利工事を施す事を決定します。そして若干30歳の八田與一に白羽の矢をたてます。この大事業を拝命した八田與一は期待に応え12年の歳月をかけ嘉南平原の不毛の地を見事な大穀倉地帯に変貌させたのです。この大事業が台湾の農業発展の基盤づくりに大いに寄与し、国家の安定に貢献している事は紛れも無い事実でしょう。
今も満々と水を湛える烏山頭ダム(珊瑚ダム)、穏やかな湖面に八田與一の情熱が漂っています。


八田與一像

日本統治時代(1895〜1945)に建てられた沢山の日本の軍人、政治家の銅像は戦後、国民党政府により当然の如く撤去されてしまいました。現在、児玉源太郎・後藤新平の銅像が国立台湾博物館に保存・展示されておりますが、人々に愛されたが故に台湾に今も残っている銅像は、八田與一像以外にないでしょう。

この銅像は、ダム完成後「烏山頭交友会」が八田與一の許可を得て作ったものです。ただし、すんなりと事が運んだわけではありません。特別な存在になる事を嫌った八田與一は銅像作りを固辞しています。仕事に関して八田與一に心服し命令に服従してきた面々も、この件に関しては引き下がらず「あなたの為ではなく働いていた全員の為に作りたいのです」 と頑張ったようです。八田與一も、この一言には逆らえず一つの条件を付け許可をいたします。

銅像を作る条件とは、「立派な恰好で高い台の上で威張っているようなものにはしないで欲しい」「台座の上ではなく ダムが見下ろせる場所の地面じかに置いてほしい」、これが八田與一の条件でした。いかに労働者との仲間意識を大事にしてきたかがうかがえます。

「烏山頭交友会」とは、1920年9月1日の起工式から数え10年後の工事が終わろうとする日に工事仲間が工事後も絆を確 かめる目的で八田與一を会長として作った会です。1918年・大正7年の測量開始から12年の歳月が流れています。


八田與一像のエピソード

許可を得た交友会の人々は與一の生まれ故郷金沢の彫刻家「吉田三郎」氏に製作を依頼します。銅像は與一が考え事をし ている時の姿を復元しております。地面に腰をおろし作業着、ゲートル巻き、左足を投げ出し、立てた右膝の上に右肘を置き、右指は髪の毛をさわっている姿です。 この右指は、ゆっくり、ある時は気ぜわしく髪の毛をさわったと言われております。ゆっくりは機嫌良し、気ぜわしく右手が動くときは機嫌悪し、髪の毛を引き抜くときは最悪。気ぜわしく右手が動き出すと、現場職員は與一のそばから逃 げだしたというエピソードが有ったようです。


 銅像らしくない銅像ですが、與一と作業員・工夫達との関係が反映されている何とも言えない暖かいほのぼのとした雰囲気を漂よわせております。銅像はダム完成1年後の1931年(昭和6年)に與一の願い通り湖面を見降ろす地面に置 かれました。この年は満州事変が勃発した年で終戦の1945年まで、日本はボロボロズタズタになる戦争への道を進んでいきます。戦争末期には八田與一像も例外ではなく金属供出の対称となり烏山頭ダムから姿を消しました。 

「吉田三郎 明治22年〜昭和37年」 金沢に生まれた吉田三郎は、石川県立工業学校で板谷波山に学び東京美術学校に進んで北村西望らと席を同じくした。
卒業後は朝倉文夫のもとで朝倉塾の中心として活躍、徹底した写実を貫き、ロダンやムニエなどの西洋彫刻の影響を受けつつも、東洋的な静寂をたたえた独自の作風を確立し確固たる地位を築いていきました。
芸術院会員、日展常務理事、日本彫塑家倶楽部委員長などを歴任し、日本彫刻界の中枢をなす作家でした。 同時代に活躍し経歴が似通っている「都賀田勇馬 明治24年〜昭和56年」が銅像製作者との説もありますが間違いでしょう。 金沢市に生まれ、石川県立工業学校を経て東京美術学校に入学、朝倉文夫に師事、ここで両者の交流が有ります。 大正3年大正博覧会に入選。大正10年第3回帝展に初入選、以後連続して入選。昭和22・23年日展で特選受賞。金沢市文化賞、小松市文化賞受賞。昭和27年ハニベ巌窟院を創設。

八田與一像の運命

戦争末期(1944年・昭和19年)金属供出命令で烏山頭ダムを見降ろす場所から與一像は姿を消します。嘉南平原60万人の命を守ることに男の情熱を注ぎ大事業を成し遂げた男の像が、人命を奪う武器に使われるというのだ。 ところが、溶融されたはずの銅像が、終戦を迎えた1945年の或る日、とある場所で発見されました。そして戦後35年経た1981年(昭和56)1月1日、地元有志の手により湖面を見降ろす元の位置に戻されます。しかし、嘉南の人々は與一像 を以前のように、じかに地面に置く事はせず台座の上に設置いたしました。


1944年に取り外され再び元の位置に設置される1981年(昭和56年)までの37年間は台湾人にとっては暗い時代でした。 戦争末期の日本軍国主義、その後は大陸から来た国民党の「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治、そして1992年迄つづく「 国家安全法」による言論統制などのつらい時代を経験します。

八田記念館でいただいた資料によると、「終戦早々に職員が偶然に隆田の倉庫で発見し買い戻した。そして安置する前に 盗まれたり傷つけられたりの万一を考え、鋳型を新たに造り保管した」と書かれている。隆田の倉庫とは現在の台鉄隆田駅の倉庫の事で金属回収で高雄に運ばれる予定のものが何かの理由で倉庫に残されていたという意味なのでしょう。余談ですが隆田には前総統陳水偏氏の生家があります。

「與一の銅像が終戦の年の或る日、嘉南大圳を管理している水利組合の倉庫の中から発見された」「終戦後 偶然にも水利組合の職員によって烏山頭ダム近くの駅倉庫で発見され、八田家がかって住んでいた家のベランダに隠し置いた。この家の前を通る嘉南の農民は手を合わせ拝んだ」などと記述されている文章もある。
「白色テロ」を経験した人々にとって 真実を語っても身の危険が及ばない時代となった今も真実を明かす事を憚る何かが心の中にあるのでしょう。意図された事か偶然か、いずれにせよ八田與一像は無事、嘉南の地に戻ってきました。


嘉南大圳の竣工 

1930年(昭和5年)4/29日、昭和天皇誕生日に嘉南大圳の竣工式がとりおこなわれた。 事業は半額を国が賄い、受益者が「嘉南大圳組合」を創設し事業施工者となる形態を採った。與一はこの事業を遂行するにあたり総督府技師を辞任(1920年・大正9年)、嘉南大圳組合技師となる。 そして若干34歳の若者が嘉南大圳組合 監督課長兼工事課長烏山頭出張所長として、この大工事の責任を一身に背負い工事完遂に邁進するのでした。そして見事 やりとげた竣工時には44歳の白髪まじりの中年になっていました。

竣工後の1931年(昭和6年)には心血を注いだ嘉南の地を離れ台北市幸町(現在の中山南路、二二八和平記念公園付近)の官舎に転居し総督府内務局土木課水利係長(高等官三等一級)を拝命し、一旦脱いだ官服を再び着る身になります。

しかし烏山頭ダムとは組合技師解職後も組合技術顧問となり、その後も関わりあってゆく事になります。 組合技術顧問として建設当時の技術者幹部と共に、毎年一度は、この地に戻り重要地点視察後、維持管理の注意事項を指導しています。 八田與一の仕事はダムの完成で終わりません。嘉南平原の農民に「水の恩恵は嘉南平原60万人、全ての農民で平等に分かち合う」という崇高な理念を理解させ「3年輪作灌漑法」という耕作方法を普及させなければなりませんでした。これ は言うは易し行うは難しで、八田與一が人々の信望を集めていなければ出来ない事でした。

八田與一の人間像には勲章は似合わないのですが、1934年(昭和9年)に勲六等瑞宝章、1938年(昭和13年)に勲五等瑞 宝章、1939年(昭和14年)に勲四等瑞宝章を授与されております。又、当時の官制では技術者は課長職には就けません ので1939年には「勅任官技師」と厚遇され1941年(昭和16年)には高等官二等三級となっております。

独創力 

「桃園埤圳」での手腕を認められた與一は、嘉南平原の調査活動(1918年・大正7年)を精力的に行い嘉南平原灌漑事業 計画を推進していくことになります。この頃、日本国内では米が不足し米騒動なども起きており、土地のある台湾での米の増産を考えています。嘉南平原灌漑事業計画は「工業は日本内地 農業は台湾」という国策に立脚する計画だった。

烏山頭ダムと濁水渓からの取水量で嘉南平原15万町歩全域を水で潤すには物理的に問題があり嘉南平原灌漑事業計画の推進に支障となった。しかし與一は「水の不足分を3年輪作灌漑法というもので補えば嘉南平原全域に水を送る事がで きる。嘉南平原の農民全てが豊かになる事が台湾の将来に必要である」との信念で嘉南平原灌漑事業計画を推進してい くのでした。この理念には総督府の役人も反論できず與一の事業計画は承認されます。

嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにするにはダムや水路を作るだけではなく土木技術者の権限枠を飛び越える必要があった。貯水量に合わせ給水面積を決める水の運用・3年輪作灌漑法という独創的な考え方、このハードとソフトを 結合さす発想力が嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにしたのです。

 PS.
「桃園埤圳」 台北近郊の桃園地区に上流から水を引き込み、溜池をつくり、ここより水路を張りめぐらせ22,000haの 水田をつくる工事。


未知への挑戦 

嘉南大圳事業の中心をなす「烏山頭ダム」がどれぐらいの規模だったか、「黒部ダム」は発電用、「烏山頭ダム」は灌漑 用と目的は違うのですが、あえて比較をしてみます。
ダムの高さ:「烏山頭ダム」56m、「黒部ダム」186m。
堤頂長:「烏山頭ダム」1273m、「黒部ダム」492m。
貯水容量:「烏山頭ダム」1.5億t、「黒部ダム」2億t。
工事期間:「烏山頭ダム」10年、「黒部ダム」7年。
総工費:「烏山頭ダム」5400万円(台湾総督府年予算5000万)、「黒部ダム」513億円。
完成:「烏山頭ダム」1930年(昭和5年)、「黒部ダム」1963年(昭和38年)。

八田與一の独創性は、この巨大ダム工事に東洋では例の無い「セミ・ハイドロリック」工法を採用した事です。この工法の先進国アメリカでさえも、このような大規模の工事には採用されておりませんでした。 しかし八田與一は研究を重ね長さ1273m、高さ56m、幅300mの堤防をこの工法で築ずく決断をいたします。「烏山頭 ダム」の業績はアメリカ土木学会が「八田ダム」と命名し学会誌上で世界に紹介したほどの偉業だったのです。
「セミ・ハイドロリック」工法とは簡単にいえば、自然の堤防が玉石、栗石、砂利、小砂、粘土などで創られているのと同様にコンクリートは中心部の一部分に使うだけ、あとは自然と同様の構造体を造る工法です。この工法の評価は他のダムが土砂の堆積などで50年で寿命が終わるのと比較して烏頭山ダムは築造80年後の今なお嘉南平野を潤すに充分な働きをしています。

先見性・決断力 

與一は現場作業を前近代的な人海戦術から、機械を導入した近代的な作業に改めます。機械の導入は労働力のあまっている当時としては常識はずれのことです。多くの反対を以下のように説得します。「これだけの工事は人力だけでは20 年たってもできない。工事が長引けば15万haの土地は不毛のままで金を生まない。早ければ、それだけ早く金を生む。 機械は、その後も別の工事で使える、そして機械を使える人間が育ち日本にも機械を作る会社が生まれる」 與一の先見眼の通り、ここで育まれた「人」「物」「金」は、その後のインフラ整備や港湾開発などの台湾開発で大きな 威力を発揮いたします。


與一がアメリカから買い付けた土木機械は、パワーショベル7台、エアーダンプカー100台、ジ ャイアントポンプ5台、機関車12台、コンクリートミキサー車4台、等です。
この機械導入にダム工事・トンネル工事予算部分の25%に当たる金額使います。これは大変な決断です。 80年を越す今も現役で嘉南平原を潤す「烏山頭ダム」を造り、それに留まらず「烏山頭ダム」の限界を考え次の曾文渓ダム計画構想を與一は持っていました。現在の曾文渓には與一が設定したダム築造地点に1973年(昭和48年)曾文渓ダ ムが完成しております。


人間力 


「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えを與一は持っていました。工事関連施設はもとより、家族が 一緒に住める宿舎、共同浴場、病院、学校、店舗、娯楽クラブ、テニスコート、弓道場、公園などの地域整備・街づくりをしています。この街で2,000名余の工事関係者・家族が生活をし仕事に励んでおります。與一の子供たちが通った小学校は現在存続しています。 更に與一の素晴らしいところは、施設の運用に於いても職員や家族の生活を大事に考え、映画上映、運動会、芝居観劇 、盆踊り、祭り、などを催しております。自分自身も倶楽部で毎日のように職員に交じり麻雀・碁・将棋などに興じ、職員からはオヤジと呼ばれ慕われておりました。 物を造り、それに命を吹き込み魂を入れる、台湾で活躍した明治大正人の典型といえる人でしょう。
大型機械導入、地域整備など、八田與一の独断で出来る事ではありません。與一を使いこなした直属の上司山形土木課長、最高責任者の下村海南民政長官の高い見識があったからこそできた事でしょう。

人間愛 

「嘉南大圳」の大事業には「烏山頭ダム工事」をはじめとする関連工事が沢山あります。毎秒50tの水をダムに送り込 む直径5m、長さ3200mのトンネル工事もそうちの一つでダム工事と並行して行なわれております。 この烏山頭ダムの大きな器を満たすには別河川からも水を引き込む必要が有り山を越したところの水量豊富な曾文渓(川 )から水を引き込む工事が行なわれました。

工事初期、トンネルを90mほど掘り進んだところでガスが噴き出し、機械からの引火でガス爆発が起こり思わぬ惨事が発 生します。人間の命の尊さを第一に考える八田與一には相当この惨事は堪えたようです。與一は犠牲者の家を一軒一軒、 訪れ丁寧にお詫びをされております。その際、うちひしがれた與一を見た遺族は逆に與一を励まし工事の続行を懇願したと伝えられております。


この「嘉南大圳」工事の10年間で、134名(台湾人92人、日本人41人)もの人が犠牲になっております。完成後に建てられた殉工碑には、台湾人、日本人の区別なく死亡順に名前が刻まれております。 工事期間中、内地で東京大震災が発生します。その影響はこの工事も例外ではなく大幅な予算削減に迫られ作業員の大幅削減をするのですが、なんと與一は優秀だと評価されている職員から辞めさせるのです。「優秀な者は再就職が簡単である。しかし他の者はここを去ると仕事がなく生活ができなくなる。実務には優秀な少数の人間より、平凡な多数の者が必要である」という理屈です。
そして、辞めていく人達の就職先を自分が率先し台湾中を駆け回り探したそうです。 更に辞めていった人達を烏山頭に呼び戻すチャンスを待ち、沢山の人を呼び戻しています。銅像からみる鬼瓦の様な顔の内面には自分と関わりの有った人達全員を大事にする優しさが秘められているのです。

【嘉南大圳】灌漑土木工事の概要 

(1)官田渓を塞き止め烏山頭にダムを造る。堤長1273m、堤高56m、給水量1.5億t。 (2)烏山頭ダムに別河川(曾文渓)から毎秒50tの水を引き込む長さ3200mのトンネルを造る。 
(3)ダムから水田に送る水路を造る。灌漑面積15万町歩(15万ha香川県と同面積)。
水路総距離16000kmは台湾10周強の距離に匹敵する(台湾1周の鉄道距離≒1230km) (4)総工費5400万円。(当時の台湾総督府の年間予算は5000万円)

1895年に清国から割譲された当時の台湾は人口300万人、阿片の常習、マラリヤの蔓延、きわめて治安が乱れ近代化の遅 れた土地で初代〜第3代総督時代は抗日ゲリラ掃討に明け暮れていた。
第4代台湾総督児玉源太郎、後藤新平民政長官が赴任した1898年頃から、ぼちぼち台湾の開発が行なわれ その後おおいに近代化が進みます。 嘉南平原の調査活動を始めた1918年は初の文官「第8代台湾総督田健次郎」「下村海南民政長官」の時代であった。下村海南民政長官は「烏山頭ダム」の完成時には珊瑚のようになるであろうと「珊瑚潭」と命名しています。
第8代台湾総督田健次郎

田健治郎男爵(1855〜1930) 1919年文官として初めて台湾総督となり台湾における法制整備と文民統治の定着に尽力した第8代台湾総督。逓信大臣・ 司法大臣・農商務大臣・枢密顧問官等を歴任。参議院議員・田英夫は孫にあたります。
下村海南民生長官(1875〜1957) 1915年台湾総督府民政長官に就任。本名は下村宏、歌人としても知られ海南の名で多くの作品を著している。 ポツダム 宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、玉音放送の際の内閣情報局総裁であった。拓殖大学第6代学長。

與一の死

「嘉南大圳」を完成させた與一は台湾総督府へ勅任技師として復帰し、台湾全土の産業開発計画の仕事をしていました。 その與一に陸軍省よりフィリッピンの水利開発の実地調査の南方開発派遣要員として命が下ります。3人の部下と共に1942年(昭和17年)大洋丸に乗り込み広島宇品港を出航しました。5月8日、大洋丸が五島列島を過ぎたあたりでアメ リカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、八田與一は東シナ海で56歳の幕を閉じるのでした。

1ケ月後、遺骸は偶然にも付近で漁をしていた山口県の第2睦丸安藤晃船長の網にかかり故郷に送られ荼毘にふされます 。愛する台湾で待つ愛する家族の元へ遺骨となり帰るのです。外代樹夫人、子供達の悲しみはもちろんのこと嘉南平原が大きな悲しみに包まれます。この時、外代樹夫人は16歳で結婚以来、夫と苦楽を共にした思い出の地「烏山頭」に子供たちと共に台北から疎開をしておりました。葬儀は嘉南平原の沢山の農民が集まり珊瑚潭の畔、與一像前でしめやかに執 り行なわれます。総督府でも與一の偉業を称え盛大な葬儀が行なわれております。

妻「外代樹」 

故郷金沢の医者の娘に生まれた米山外代樹は16歳(1917年・大正6年)で八田與一に嫁ぎ、夫の赴任先台湾に渡ります。 その5年後の1922年に台北から不毛の荒野「烏山頭」に夫に従い長女正子、長男彰夫を伴い転居いたします。「烏山頭」 での外代樹は所長の奥さんだからといって威張るわけでもなく誰にも優しく接し、工事で働く人達と仲良く工事完成までの10年間を夫と8人の子供達に囲まれ平和な日々を送ります。

工事完成後は台北幸町の官舎に一家は引っ越し、子供や孫に囲まれた平和な日々が続きます。ところが戦争はこの平和 な日々を許さず太平洋戦争開戦(1941年12/7)数か月後の5/8、夫の戦死に接することになります。更に戦況の悪化は二人の息子、長男晃夫、二男泰雄を戦場に連れて行きます。戦時中は国民誰もがそうであったように外代樹も夫の死を「お国の為の名誉の戦死」、息子たちの出征を「名誉の出征」とし、悲しさ寂しさを隠し気丈に振舞っておりました。

やがて敗戦を迎え兵士達は親兄弟の待つ故郷へ帰って行きます。台北から残された子供達をつれ家族との思い出が一杯詰まった「烏山頭」へ疎開をしていた外代樹の元へも学徒動員で出征していた次男泰雄が復員してきます。その晩は精一杯の御馳走を作り家族全員で泰雄の復員を祝います。 家族の喜びも束の間、外代樹は子供たちが寝静まったのを見計らい遺書をしたため、夫が粒々辛苦築いた「烏山頭」ダムの放水口の渦巻く水中に身を投げ享年45歳で夫の後を追います。偶然にも9/1この日は与一が全精力で取り組んだ「嘉南大圳」の工事着工の日です。
朝方、遺書に気付いた子供たちが母をさがし、放水口に駆けつけてみると、そこにはきちんと並べられた母の草履が有ったそうです。外代樹の遺体は6km下流の水路から翌日発見されます。與一に続く外代樹の死は嘉南の人々に更なる深い悲しみをもたらしました。 3年間の「烏山頭」疎開生活を気丈に振舞っていた外代樹ですが、出征した息子たちの無事復員、敗戦により夫が愛した台湾を去らなければならなくなった事など、様々な事が胸中を駆け巡ったのでしょう。「兄弟姉妹なかよくしてくだ さい」との遺書を残し愛する夫の元へ旅発ったのです。今は愛する夫と共に珊瑚潭を見渡せる地で永遠の眠りについてお ります。

中島力男技師

 嘉南の人々は八田夫妻の墓を終戦翌年の1946年(昭和21年)12/15、日本式の御影石で銅像の後ろに建立いたします。毎年5月8日の与一の命日には與一の銅像、お墓の前に沢山の農民が集まり、與一と外代樹に思いを馳せ手を合わせる事が 今なお途切れる事無く続けられています。

東京農業大学出身の中島力男技師は蓬莱米を豊かに実らせるため計画給水、計画生産に添った農業の指導を任されています。中島技師は農村を巡回し苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方などを指導します。更にダムからの水を田畑に引くための水路作りや完成し張り巡らされた水路にどれくらいの水を放出するかの管理も農民たちに指導します。
水利課長中島技師の嘉南を豊かにするための活躍と苦労は八田與一が烏山頭を去った後も続きます。終戦後も中華民国台湾省の留用として1年余台湾にとどまっています。
嘉南の人々は中島技師の功績を忘れず、八田與一ご夫妻のお墓の横に中島技師の生前墓(分髪)を建て、八田與一と同じように感謝の気持ちを表しています。

5/8の八田與一追悼式と同様に工事期間中に亡くなられた従業員、作業員、134名の霊を慰める慰霊祭が「殉工碑」の前で旧暦7/15に行なわれています。

#台湾に残る日本

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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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