台湾に残る明治大正ロマン−1(2010.05.28〜2011.08.08)

2012年4月20日金曜日

台湾に残る明治大正ロマン

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台湾に残る明治大正ロマン

懐古趣味「台湾故事館」

05/28/2010
台北駅前の現代的な建物が立ち並ぶ一角にそれは有った。大正or昭和初期にタイムスリップをしたような、ノスタルジックな空間が有った。自分の過去をダブらせながら見学すると、時間はアッという間に過ぎた。終わりを告げるチャイムに追い立てられるように家路に着いた。


台湾にある神社-1

05/30/2010
外資系の5☆ホテルがいくらも有る台湾だが、「圓山大飯店」は憧れとは言いすぎだが一度は宿泊したいホテルであろう。最近では撮影スポットのみになっているきらいも有るが。

この「圓山大飯店」は戦後「台湾神宮」の跡地に建てられた「台湾大飯店」を改築(1952’)したものだと「中山北路」に有る台北の変遷を掲示している資料館で知った。 

 「台湾神宮」は1901’(明治34年)に「剣漂山」に創建され、祭神は北白川宮能久親王と開拓3神(大国魂命・大己貴命・小彦名命)及び天照大神としている。
祭神の能久親王は台南の地で抗日勢力の平定中に病死した。これが出征先で病死したヤマトタケルになぞらえ台湾鎮護の神とされ台湾にあるほとんどの神社が祭神とした。 
又、資料館のある「中山北路」は1923’皇太子(昭和天皇)の台湾行啓に際し、「台湾神宮」に参拝する為に作られた勅使街道(現行政院から台湾神宮まえ明治橋、現中山橋まで)が基礎だという事だ。 
「台湾神宮」は10/28の「台湾神社祭」に遷座する予定であったが、終戦間近の1944’10/23に圓山の山頂に旅客機が墜落し、新社殿や鳥居、石燈などを消失したとある。元の神社は?。

 ありし日の台湾神宮

手前の橋が明治橋(現中山橋)

初期の圓山大飯店

ホテルへの入口経路 ⇒「北安公園」側、「剣漂公園」側、「中山北路」側
「北安公園」「剣漂公園」へはホテルからの地下道が有ると云う事は知る人ぞ知る。


国共内戦時の山西省のある部隊を祭っている忠烈嗣


「圓山大飯店」の正面入口

「圓山大飯店」の威容
     
新しい台北のランドマーク101を「圓山大飯店」から写す

半日歩き回ったが「台湾神宮」は跡形も無く消えていた。終戦後殆んどの神社は破壊または改築され中華民国の戦死者を祭る忠烈祠になった。1箇所のみ桃園県にある忠烈祠が地元民の強い要望で、日本時代のものがそのままのこされているとの事だ。

台湾にある日本神社-2 桃園県忠烈祠

06/07/2010
桃園県忠烈祠文化会館
桃園忠烈祠
   
夕食の席で圓山大飯店の場所には「台湾神社」が立っていたという話題から台湾にあった神社の話しになった。
その話しの中で、日本帝国主義の象徴でもあった神社がほぼ完全な形で残されている所があるとの情報をゴールデンキークラブの台湾第1号会員の友人から教えてもらった。
それがこの「桃園県忠烈祠文化会館」で日本時代は「桃園神社」といわれていた。
(ゴールデンキークラブ=ホテルのコンソルジュの世界組織)

台湾全土にあった200近くの神社は殆んど1930年代に作られた。
1972’に日本と台湾が断交したとき、台湾政府は日本帝国主義的なものは全て取り除く政策をとり、各地の神社が破壊されたが、「桃園神社」は1部学者を巻き込んだ地元の熱心な反対運動によって破壊を免れ、1938年(昭和13年)に再建され、現在では国家3級古跡に指定されている。祀っていた神様は「台湾神社」と同じ。

朝7:30に家を出、近所の店で「蛋餅」「蘿蔔糕」 「豆漿」 の朝食をとる。MRTで台北駅まで行き「新竹」行きの電車に乗り込む。ここまでは順調な滑り出し。と思ったとたん車内の電光掲示板が逆方向(基隆)の駅名を表示していた。しまった、乗り間違えたと思ったが、すでに電車は動き出していた。数名の人が騒ぎ出したが、単なる操作ミスで直ぐに修復された。
30分ばかりで目的地「桃園」到着。さて、ここからバスを探す仕事だ。バス網が発達しているという事は、路線が沢山有るという事だ。その中から「栄民医院」に行く路線を探さなければならない。バス停が幾つも有り少し難儀、めげそうになる。
最初は道行く人に聞いていたのだが今一要領を得ない。銀行の警備員に聞いたのが良かった。私を銀行窓口まで連れて行き英語を話せる人に繋いでくれた。この人が誠に親切な人でバス停まで連れ行ってくれた。謝謝。 
やっとひと安心と思いきや今日に限って小銭が無い。台湾のバスはお釣をくれない。小銭が必要だ。セブンイレブンに水を買いに行った。ところが50m歩けばぶち当たるほど沢山あるセブンイレブンが今日に限って見当たらず結局、駅前までひきかえして購入。
バス代はチケットを買えばNT$18(¥54)、私はチケット未購入の為NT$20払った。水はNT$42だった。何時も思うことは、乗り物代が他に比較して安い。
神社までの道順を復習すると「桃園」駅前の道を真っ直ぐ歩き「成功路」に出る。交差点を右折し10mばかりのところにバス停がある。「大有路」方面いきのバス「桃園客運」105に乗り「栄民医院」下車、進行方向徒歩3分で「桃園県忠烈祠」に到着。

石段を登り境内に入るとそこは正に日本だ、誠に感慨深いものが有る。

「桃園」の文字が新しく彫られた石碑

昭和13年9月吉日の文字がある台石 

台湾にある日本神社-3 桃園県忠烈祠

06/09/2010
桃園県忠烈祠に現存する当時の物は、本殿・拝殿・社務所・手水舎・その他3棟、石碑、鳥居、狛犬、灯篭、銅馬など。
 説明によると鳥居は3基あったが現存するのは1基。狛犬は2対だったが現在あるものは1対で1986’複製された。 銅馬は当時のまま。(腹部にある菊の御紋は削られていた。案内書には磨耗したと書かれている) 

当日は男女ペアーと男性、私の4人が訪れているだけだった。社務所にいる案内人は地元の旅行者の人が委託を受けているようだった。彼は私が日本人と分かると、日本語のパンフレットを手に説明をしてくれるのだが、誠に理解に苦しむ日本語で、早々にその場を退散した。
興味の向くまま、シャッターを押し続けた後は、しばし瞑想。とゆうか、木陰にはいると気持がよく、バス探しで疲れていたのか居眠りをしてしまった。

帰りのお礼に社務所を覗くと、先ほどの人が本を片手に出てきた。なんのことは無い、私に日本語の読みを教えろという事だった。なんでも8月に受験する通訳ガイド試験の準備という事だった。特別日本語教室開校だ。
私の教え子は、ひらかなは書けた。多分合格は?だ。 日本語教室の後のハプニング。今度は奥から30年愛用している、日本の流行歌の本だという物を持ってきて、いきなり歌い始めた。題名は「オチバシグレ」。🎼オチバシグレノ〜〜ネムレヌヨルハ〜〜。鬱蒼と茂る木々に抱かれた神社をバックに2人の男のドラ声が響きわたった。続けて3~4曲合唱。先ほどの感動は何処へやらだ。 ここへはバスで10分も走らずに着いたので、帰りは徒歩と決めていた。

管理人は徒歩は止めろ、バスにしろと言ったが初志貫徹、歩く事にした。「犬も歩けば棒にあたる」昔の人は良い事を言った。 途中に土日祭日休み、1日2便の超超マイナーな鉄道路線の「国立桃園高中」駅が有った。

「虎頭山公園」の歩道にズラーと並ぶ路上営業の散髪屋さん。 この2つは車で通り過ぎると絶対発見できない台湾だろう。 

 それにしても駅は遠かった。ぶらぶら立寄りながらの徒歩だが、正味50分は歩いただろう。疲れた、オーバーワークだ。
今日の出費は、朝食NT$34、昼食NT&55、水NT$42、バスNT$20、台鉄NT$44×2、地下鉄NT$70、締めてNT$309(¥930)。楽しかった。

中華民国総統府 (旧・台湾総督府)

07/15/2010
【建物】1919年(大正15年)竣工。国定古跡。 
【設計】長野宇平治 森山松之助。辰野金吾式建築の代表作。
【場所】MRT台大医院駅徒歩5分。中正区重慶南路1段122号。 

台北には多くの歴史建築物が残されており、古跡に指定されているものも多くある。
その中でも筆頭は、南国の風を受け青天白日滿地紅旗を、たなびかせている中華民国総統府、かっての台湾総督府だろう。
写真では伝わりませんが威風堂々とした威容に圧倒され旅行雑誌で得た知識が、もろくも崩れ去ります。私の実感では日本近代建築物の中でも筆頭にあげられる建築物のような感じが致します。

日本時代50年間で建築された最大の建築物で、7年の建設期間を経て1919年竣工しました。
日本人が居住していた城内の中央に位置し、中央塔からは台北全体が見渡せました。
この中央塔は高さ60m、台湾初のエレベーターが設置されています。 
1907年の日本政府による設計コンペで選ばれた長野宇平治の作品では、中央塔が低く、外観装飾が質素であったため、主催者が森山松之助を起用し、長野の作品に大幅な修正を加え現在の姿になっています。 
総督府は東向き、日本の方向を向いており、全体の形は「日」の字になっております。 昭和20年の台北大空襲では正面左側に爆弾が落とされ、3日3晩焼け続いたということです。
終戦時には、内地に引き上げる人々の終結地になっていたようだ。
戦後は修復をされ現在に至るまで、台湾総統が執務をしております。

 現在、1F部分は一般公開されており、ボランティアの白髪の、お爺さんが「戦後の日本人の生き方」「自分達の生きた戦前の日本」、日本への思いを込め一生懸命、歴史を語ってくれます。
白髪のお爺さんは元日本陸軍特別志願兵「蕭錦文」さん84歳です。私達戦後の日本人が捨去った日本人の心を持った素晴しい日本人(台湾人)です。
現在は月曜日~金曜日の午前9:00~12:00まで1F部分のみ開放されています。(パスポート必要)


日本の日を型取っています。そして四隅の出っ張り部分は喫煙室だったそうです。この時代に、既に分煙意識が有ったという事ですね。


台湾大学医学院附設医院(旧・台北帝国大学医学部付属医院)

07/15/2010
【建物】1916年(大正5年)竣工。市定古跡。
【設計】近藤十郎 
【場所】MRT台大医院駅前。中正区中山南路3号。
【変遷】1895年(明治28年)台湾統治直後、大日本台湾病院設立。⇒1897年(明治30年)現在地に木造病院を建設。台湾総督府台北病院⇒1916年(大正5年)現在の建物竣工⇒1924年(大正13年)台北帝国大学医学部付属医院となる。
 
赤レンガ、ルネッサンス様式の「現・台湾大学医学院附設医院」です。
80余年の歴史は閉じられる事無く、現在も受付や診療部門の一部として使用されています。 
先に取り上げた「旧・台湾総督府」の竣工は1919年(大正8年)、この「旧・台北帝国大学医学部付属医院」は1916年(大正5年)竣工です。
資料には当時、東アジア最大の施設であったと書かれている。 同時期に建てられた、大阪中ノ島公会堂が1918年竣工(大正7年)・東京駅が1914年竣工(大正3年)とされています。
この時期の台湾の建造物を見るたびに考えさせられるものがある。



紅楼劇場(旧正式名称・新起街市場)

07/24/2010
【建物】1908年(明治41年)竣工。3級古跡。
【設計】近藤十郎 
【場所】MRT西門駅。萬華区成都路10号。

若者達が闊歩する町「西門町」はかっての台北城の西門の外側にあたる場所にある。
この地の中心部に一際歴史を感じさせる赤レンガの建物「八角楼」が有る。 赤レンガの建物「八角楼」は1908年(明治41年)に台北西門市場として建築され、1階は日用品、2階は書画骨董を販売する公設市場として賑っていた。
建物は文字通り手前に八面体の建物と後部の十字型の建物で成り立っており、八面体は「八方から客が集まる]為にという意味が有るらしいが、こじつけだろう。

 「八角楼」はこの町の栄華衰勢をじっと眺めてきた西門のランドマークだ。 
日本統治時代初期(1890年代)、荒地だった門外に日本人街ができた。これが西門町の始まりで開拓当時は「台北座」「栄座」などの芝居小屋がある浅草のような賑わいの繁華街だった。
1930年代にはいると映画館街として栄え,戦後は大陸から渡ってきた人々で賑わい、大陸を懐かしみ戦前の上海歌謡などのショーを見に通ったようだ。

現在でも当時の名残か、四川料理が軒を並べている一角が有る。 1980年代には、他地域の発展により、活気を失っていった西門町だが、1990年代頃からは若者向けの繁華街として、活気を取り戻している。歴史とは不思議なもので、日本時代は芝居小屋、戦後は演芸館、現在は映画館の様に、この街のDNAには芸能が組み込まれているのだろう。 


台北天后宮
西門町で日台の民間信仰の神仏が祀られている廟を見つけました。ビルの谷間の「台北天后宮」に祀られている弘法大師


烏さん EMAIL  07/25/2010
紅楼劇場は素晴らしい建物ですね。当時は赤レンガの建物が流行ったんでしょうかね。戦後に大陸から来た人が外省人でしたね。台湾の人は50%が日本びいきと聞きましたが、彼らは日本をどう見ているんでしょうか?

Martin Nishida Mail 
烏さん こんにちは、領事館に相当する「交流協会」が実施した台湾人の対日意識に関する世論調査結果(2008年11~12月)です。
「親しみを感じる」は69%
「親しみを感じない」は12%
「最も好きな国(地域)」 日本38%  台湾31%  米国5%  中国2%
「日本に対するイメージ」 経済力、技術力の高い国。自然の美しい国。ルールを守る国。
            豊かな伝統と文化を持つ国。
これが台湾人が日本人に持っているイメージです。

台北賓館(旧・台湾総督官邸)

07/27/2010
【建物】1901年(明治34年)竣工。国定古跡。台湾総督府の竣工は1919年(大正8年)。
【設計】福田東吾 野村一郎 
【場所】MRT台大医院駅

日治時代の「台湾総督官邸」という厳めしい名前から、現在は「台北賓館」(迎賓館)となった。可憐と表現するのが一番適している様に思う、美しい女性的な雰囲気を漂わせている建物だ。

この建物が1895年(明治28年)の「北白川宮能久親王」が台湾征討近衛師団長として台北に入城した、わずか6年後の1901年(明治34年)の竣工と知ってビックリだ。これは100年以上前の事で、ちょん髷を切ってから34年後の話だ。明治人の気概やセンスには改めて感心する次第だ。平成に生きている日本人には、この人達のDNAが流れているんだ、頑張れNIPPON。

周囲を2m程の趣味の良い塀で囲まれており遠目でしか見れない。明治時代にフィードバックするなら{付添い人に囲まれ、活発で楚々とした良家の女性}を眺める雰囲気だ。国賓級の知り合いも無い年金生活者には、建物内部を見学するチャンスはまず訪れないだろう。一般公開に期待するしかない。



08/17/2010
しゅみーと倶楽部からやってきました。 「台湾総督官邸」風格ありますね。 今は「台北賓館」(迎賓館)。 一度見に行きたいものです。

建国中学紅楼(旧・台北州立台北第一中学校)

08/01/2010
【建物】1908年(明治41年)。市定古跡。 
【設計】近藤十郎
【場所】MRT中正記念堂駅徒歩10分。中正区南海路56号(植物園の裏手)。

辻元清美前国土交通副大臣の離党により、内部分裂の危機がささやかれている「社民党」。
その前身「日本社会党」の委員長(?)を努めた石橋政嗣氏の出身校が台北に有ります。
(旧)台北州立台北第一中学校⇒(現)台北市立建国中学校です。
戦前から現在に到るも台湾有数の進学校で、台湾大学(旧台北帝国大学)への入学者数もTOPだとの事です。歴史の重みを感じさせる校舎で明日を担う若者が教育されております。
ちなみに現台湾総統「馬英九」も卒業生の1人です。周辺には「教師会館」「化学教育館」」「植物園」などの施設が有り、なるほどと思わせる環境に建っています。

並びには旧・米国文化中心、台湾教育会館(現・228国家記念館)がある。「歴史博物館」の前。 世界組織のUIA(国際建築家連合)という組織が有り、7/29 ルイーズ・コック会長が都内で記者会見し「日本の建築業界について、著名な建築物が十分に保存されず安易に解体されていると危機感を表明した」と報道されていた。鳩山邦夫議員の郵便局建物解体騒動を思い出します。 
  
今日現在、旧校舎の裏に新校舎が建築中ですが、旧校舎のイメージを踏襲しているように思いました。

烏さん EMAIL(08/02/2010 )
台湾の人が、日本に対する思いに感謝ですね。それほどの好意感とは知りませんでした。戦前に大きな関わりを作ったのは日本だと思いますから責任があります。 自然の美しい日本も、危機状態です。 古いものは潰して、新しい物を建てる。少し違うような気がします。そこに連綿と繋がっている歴史の重みも大事にするべきと思います。

旧・台湾総督府交通局鉄道部

08/03/2010
【建物】1919年(大正8年)竣工。3級古跡。
【設計】森山松之助 
【場所】台北駅北。 台北市大同区延平北路1段1号。

植民地経営を軌道に乗せるための台湾全土の鉄道網計画がこの建物で行われた歴史的に大事な建物です。

現在はこのように囲いが施され無残な姿をさらけ出しております。囲いの隙間からかろうじて撮れた正面入口の写真です。


右側の蒸気機関車が台湾最古の第9号機関車です。1871年英国avonside社製造。1872年~1895年まで東京新橋、横浜間を走り、その後1901年に台湾へ運ばれた。明治天皇のお召し列車を牽引した歴史を持っております。
【鉄道施設史】 
1895年 台北~基隆 運行再開
1895年 台北~新竹 運行再開 
1900年 台南~高雄 開通(日本による初の新線) 
1908年 基隆~高雄までの南北縦貫鉄道 全線開通 
1926年 花蓮~台東 開通  宜蘭~蘇澳


中山堂(旧・台北公会堂)

08/07/2010
【建物】1936年(昭和11年)竣工。二級古跡。 東京、大阪、名古屋の公会堂に次ぐ規模
【設計】井出薫 
【場所】MRT西門駅徒歩3分。 中正区延平南路98号。

資料によると、この建物は昭和天皇即位の記念事業の一つとして1932年~1936年、4年の歳月をかけて建設された「台北公会堂」だ。歴史の皮肉か天皇即位記念の建物が、9年後には降伏式の会場になった。1945年9月25日、大集会場にて第19代総督安藤利吉と中華民国陳儀長官の立会いで降伏式が執り行われ51年にわたる台湾統治が終わった。
現在は一般市民の交流の場となっている。

降伏式の会場「中正庁」

烏さん EMAIL 08/09/2010 
今年は日韓併合100年だそうです。政府は過去の植民地支配を反省し謝罪表明をするそうです。 近隣諸国への過去の過ちを謝罪するには遅すぎるけどね。遡れば、秀吉の朝鮮出兵の時から朝鮮の人を沢山連れて来ています。その外の過ちも早く正して友好を深めたいです。

返信 08/11/2010
 鳥さん 如何なる理由が有ろうとも、他国を侵略する事は良くないですね。

華山芸文特区・斉東街日本家屋

04/20/2012 
【建物】1920年代~1940年代 斉東街の日本家屋。市定古跡 
【場所】MRT忠孝新生駅徒歩10分。中正区斉東街53巷11号他。

郷愁を誘う日本家屋9棟が「直轄市定古跡」に認定されております。
場所は中正区、MRT忠孝新生駅徒歩8分程度の所に有ります。近所には大阪の日本橋、東京なら秋葉原の様なパソコンの街「光華商場」や国立台北科技大学が有り若者で賑わっております。
 
また近所には初代台湾総督華山資紀の名に由来する「華山1914創意文化園区」という文化施設も有ります。

崩壊寸前の日本家屋


建物が片付けられ改築を待つ敷地

保存の為、改築された建物。
これから100年後も日本人の足跡として存在し続けてくれるのだろう。
慾をいえば昔の雰囲気を残した改修工事が可能な時期に手を加えて欲しかった。

華山1914創意文化園区(旧・台北酒工廠)

04/20/2012
【建物】1916年(大正5年)竣工。市定古跡。
【場所】MRT忠孝新生駅徒歩10分。

酒造工場の敷地跡を利用しているので、ノスタルジックと新しい文化が交じり合った不思議な空間となっております。


建国中学(旧・建成小学校)

08/13/2010 
【建物】1921年(大正10年)竣工。市定古跡。 
【設計】近藤十郎 
【場所】MRT中山駅徒歩10分。大同区長安西路39号。

この建物は「林田桶店」から5~6分のところに有る、日本時代は小学校として使用された建物です。
戦後は50年近く台北市役所として使用され、現在はモダンアートの芸術館と建国中学に利用者が変わっております。全体の雰囲気をこわさないよう修復を重ね利用されている事に頭が下がります。 

小学校の全体像(3/2)です。信号から信号まで有り全体が写せません。100mはゆうにあるでしょう。

正面部分

校舎左側部分(この奥に中学校が有る)

校舎右側部分

「林田桶店」の親父さんが言っていましたが、この小学校は日本人と一部の台湾人の子供が通う小学校だったようです。台湾人には入学試験が科せられ、日本語が流暢に話せないと合格はできず、殆どの台湾人子弟は公学校に通った。公学校の就学率はそれ程高くなかったようです。 これが小学校の建物かと驚くぐらい立派で、そして当時の政府が国の進むべき道を示しているように感じました。

鳥さん EMAIL 08/17/2010
林田は屋号で、林(りん)さんですね?それに日本の女子高生ですよ。これも日本びいきの表れですかね。学校も公館も素晴らしい。 歴史的建造物は大事にしたいです。 変な質問です。martin nishidaさんのペンネームの謂れは神学者マルティン・ルターと関係あるんでしょうか? 

銭本三千年 EMAIL 08/13/2010
「独立国としてのプライド」について意見を、とのご要望を頂戴しました。大平元首相のご意見は全く存じませんが、私自身は、日本国憲法に示された国の形が最高だと思っております。 軍備を保持せず、国家間紛争の解決手段としての戦争は永久にしない。そのような矜恃の国家です。 
 残念ながら戦後の保守政権は、この憲法精神に反して再軍備への道を歩んでいます。それを一層、強化するため、最近は、大陸を「仮想敵」視し、国民に恐怖感を煽っています。 戦争体験者としてこれは非常に危険なコトだと心配しております。もし、煽り立てている危険が本当なら、政府は、直ちにその危険除去のため平和外交に力を尽くすべきでしょうね。 よく言われます。 軍備を持たないで外敵が攻めてきたら、どうするのか? と。攻めてこない日常の努力をするのが善隣外交。しかし、私たちは、反省しなければなりません。善隣平和外交とは全く逆の対大陸政策を行ってきたのは、われわれの側です。 中国、北朝鮮、共に、戦後、独立した新国家です。その新国家成立の時代から、米軍基地を日本列島に張り巡らせ、大砲を大陸に向けて威嚇してきたのは、われわれです。 「日本列島は、民主主義を守る不沈空母」と言ったのは、中曽根元首相でした。われわれ日本人の大陸敵視の本質は、そこにあると言わざるを得ません。これでは善隣外交の展開はとてもムリですね。私は、そう考えます。

台湾銀行

08/16/2010
【建物】1938年(昭和13年)竣工。市定古跡。 
【設計】西村好時 
【場所】MRT台大医院駅徒歩7分。中正区重慶南路1段120号。

今日は8月16日、日本は、お盆の真っただ中。台湾は旧暦7/7七夕です。織姫さまと彦星さまが年に1回、天川でお会いするという昔話の世界は一緒です。しかし暑い。インターネットで大阪西区の最高気温を見ると34度になっている。台北は29度と表示されている。そんな訳ないだろう、何処で計ってねんと言いたくなる暑さだ。 

暑さに負ける訳にはいきまへん。今日は、台湾統治において金融・経済面で重要な役割をはたした(旧)台湾銀行の写真を撮りに行った。 
 日本政府は統治開始3年目の1897年(明治30年)に台湾銀行を当時、商業の中心地であった「大稲埕」に設立した。現在地の「総統府」の北側へは1903年(明治36年)に移転したが木造建築で有った為、白蟻被害に会い、現在の建物を1938年(昭和13年)に再建した。
重慶南路1段に面し、北から台湾銀行(経済)、総督府(行政)、高等法院(司法)、と並んだこれらの建物は、まさに日本統治の象徴そのものです。 
写真右側の建物も台湾銀行です。現在は中華民国の台湾銀行として営業をしております。


帝国生命
【建物】1930年代。市定古跡。 
【設計】 
【場所】MRT西門駅(3番出口)徒歩10分。中正区博愛路162号。

帝国生命は日本生命、明治生命、第一生命、千代田生命と並ぶ大手保険会社、後の朝日生命の前身。

写真左端の小さな建物は、旧・帝国生命保険のビルですが、現在は台湾銀行がコンピューター関連施設として使用しております。現地の地図には国営事業委員会となっているものもある。

司法院
現在は外壁工事中

旧・台湾総督府

自由の家(旧・台湾銀行頭取官舎)

【建物】1902年(明治35年)。市定古跡。
【設計】
【場所】MRT小南門駅この崩壊寸前の廃屋は台湾銀行頭取の官舎。

木造とコンクリートの複合建築。
1Fは宴会と会議室、2Fが宿泊施設となっていた。
戦後は雑誌「自由中国」が反共の講演を恒常的におこない、歴史的に意義が有るとして「自由の家」の名称で市定古墳の指定を受けております。


台湾軍司令部(旧・台湾軍司令部)

08/17/2010
【建物】1920年(大正9年)。市定古跡。 
【設計】 
【場所】MRT西門駅徒歩10分。中正区(博愛路と愛国西路の西北交差点) 

台湾総督府の陸軍部が前身。1919年(大正8年)軍の指揮系統を総督府から分離した。
以後、台湾総督に文民を任命できるようになり最初の文官は、第8代総督 田健次郎男爵であった。
初代台湾軍司令官は明石元二郎第7代総督であった。

大概のMRT 駅近辺には「古跡導覧牌」という案内図が有る。この案内図と手持ちの地図で場所を確認して目的地を探すのですが、今日は「小南門」の写真を撮りに行く予定だ。

台湾城は北門・東門・南門それとこの小南門を残すのみで後は全て日本人得意の古きを壊す行動で破壊されました。案内図を見ると、その途中に「台湾軍司令部」が有る。面白そうなので立寄る事にした。 

 現地について、ビックリ。写真を撮るどころの話ではない。正面には機関銃で武装した警備兵が2人、こちらに向かって立っている。古跡に認定されているぐらいだから軍の手を離れているのだろうと思っていたのだが、現在も軍の施設だった。

「国防部後備司令部」、字面から判断すると広報部のようなものかな?。 建物を道を隔てた所から覗き見すると建物正面の奇麗なエントランスが見えた。なんとか写真を撮りたいと思ったのだがカメラを向ける勇気が無かった。
この一帯は官庁街の為、建物出入り口付近には警察官、道には50m間隔ぐらいで私服の公安が立っており、それでなくても気持の好い物ではないのに、おまけに機関銃。まったくダメです。 
かろうじて、かなり離れた公安のいない小南門付近から撮った写真です。華麗な建物でした。その内、撮影できる機会が有ると思っております。入口の門、建物外観、現在そのままです。



hiro52 EMAIL 08/18/2010
はじめまして 私も台北に在住の日本人です。ブログ村を見ていて この記事を発見しました。 いろいろ行かれましたね。 年金生活ですと、私より一回りご年配かと思われます。でも、記事は よく伝わり、先ほどからずっと読みふけっていました。 また、読ませてもらいます。 よろしければ 私のほうも気晴らしに、よってください。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiro0778kawa   http://ameblo.jp/yan0778yan/ 

昭和歌謡と温泉

10/17/2010
温泉に西洋音楽、ちょと違う。温泉には歌謡曲が絵になる。
どっぷり、お湯に浸かり、歌謡曲を一節うなれる温泉地がある。台湾で最初に温泉開発がされた北投温泉の隣にある日本の玉川温泉と同じ湯質の紗帽谷温泉場です。  
数えた事はないが、おそらく数10件の湯屋が軒を並べている。 
 [ちょと、お待ちよ車屋さん。あんた、この頃・・・・・][黒い花びら、静かに散った。今は亡きあの人・・・・・][あんこ椿は・・・・・][せんせい、先生それは、せんせい~]等々。続くは続くは、歌謡曲のBGMが止まる事を知らずにながされている。 
こんな、温泉に行き、15~6種類の具の入った御粥を食べてきました。

紗帽谷

日本情緒あふれる湯屋「川湯」

テーブルマット
日本玉川温泉と湯質は同じと書いている

TABATA KANJI EMAIL 10/18/2010
ニーハオ、田畑です。犀ちゃう妻に教えてもらって南台楽生から お礼を一筆啓上! 四十年振りの台湾旅行、西田ご夫妻のおかげで 大変充実の五日間を送ることが出来ました、瑞(おおてる?)様によろしく 謝謝。 又お会いできる日を楽しみに、ウォープーシーツーコーレンの:田畑寛次より

しおん EMAIL 10/18/2010
martinさん こんにちは! 紗帽谷では川湯の鳥料理なんかも食べたんですか? 話は変わりますが、玉川温泉にも来られたことはあるのですか? 

martin-nishida EMAIL 10/18/2010 
残念ながら、玉川には行った事が有りません(アクセス的には、台北のほうが便利な気がします)。入浴後の食べ物によって行く温泉を変えております。鳥料理、野菜を食べに行く時は、陽明山の温泉に行きます。海鮮を食べるは金山方向に行きます。 次回の台湾訪問まで、時間が空きますね。大丈夫ですか?

しおん EMAIL 10/18/2010
それがですね、なんと中華民国100年祭のニューイヤー花火がどうしてもあきらめきれず年末行きます!決定です。チケット取ってしまいました(笑)。 行かないで悔やむよりは行って後悔したほうがマシと思い判断しました! ところで玉川温泉には5~7年前、ほぼ毎月行っていました。 実家から車で約一時間、当時癌患者だった母親(既に他界)の希望で通った記憶があります。あまり楽しくない記憶ですが・・・ 湯治はもちろん、北投石の岩盤で一日中寝ているだけです。 北投石が台湾の北投から由来することは知っていましたが、当時は台湾に全く興味がなかった時代、皮肉なものです。 

martin-nishida EMAIL 10/19/2010
しおんさん 今年は建国100周年で大大大的に盛り上がるらしいです。ようこそです。 おかあさんは残念でしたね。しかし、いい親孝行ができたのではないですか。

台湾善光寺

10/23/2010
私が訪ねたのは北投にある台湾善光寺だ。MRT北投から一駅の支線に乗換、新北投へ。行楽地らしくペイントを施した、可愛いらしい電車が走っている。
 

駅前では路上ミュージシャンが歌謡曲を奏でている。それを横目に北投公園をブラブラ山方向に歩いて行くと地獄谷の入り口へ到着だ。
古跡になっている[北投普済寺]を右手に見ながら、日本の名前の付いた温泉旅館を通り過ぎ、更にどんどん坂道を行く。 

道中、道が分かれており、右へ行けば北投の古跡群にたどり着く。[北投文物行宿舎][吟松閣]。この分岐点には道標の様な石柱が立っている。
実は道標ではなく≪台湾善・・≫の碑文が読み取れる。≪・・≫は土中、ここは台湾、全てこんなもん、だいたいだ。 ここからは、かなり勾配がある。

つくつく法師の賑やかな出迎えだ。途中すれ違う人に確認しながらの道中だったが歩くこと40分やっと着いた。(牛が欲しかったな)。
読経が聞こえる、ポクポクと木魚のリズム、懐かしい、日本のお寺で聞くお経の節回しと一緒だ。南無妙法蓮華経・・・・・・・。
境内では、お目当ての物にも出会えた。一服がてら展望台で眼下の北投を見降ろしていると風に乗り街中からはカラオケ。実に気持ちが良い。



帰り道は地元のトレッキング中の人に笑顔で声をかける余裕もでた。本日のしめは、やはり温泉博物館の前に今日も立つ「尺八おじさん」だ。
本日の一言⇒北投は一番日本に近い所かも知れない。


烏さん EMAIL 10/24/2010
昨日、北海道の実家から帰って来ました。往復、車でしたのでバタン・グーでした。八戸~苫小牧はフェリー。 玉川温泉に行っています。
弟が癌で一週間ほど泊まりました。北投石の岩盤と言うことでした。 三橋美智也の歌は「古城」だと思います。日本の文化が沢山残っているんですね。

martin-nishida EMAIL10/24/2010
鳥さん 私も肺癌をやりましたので、他人事とは思えないのですが、体を温めると言うことは癌には良いらしいです。同じ湯質の沙帽山という温泉があって、私はそこに週1で通っております。元気が一番ですね。

しおん EMAIL 10/25/2010 
西田さん こんにちは! この尺八おじさんが立っている場所は北投温泉博物館の裏口(2階から出入りするところ)の前なんですね! 私が3月に行った時はいなかったです。

天狗庵

10/25/2010
 北投と言えば必ず登場する大阪商人「平田源吾」。彼は1896年(明治30)に台湾最初の温泉旅館「天狗庵」を開設した。これが台湾に於ける温泉旅館の始まりである。と、まあ~、こんな感じで、書かれている文章が多いのですが、写真が現在の「天狗庵」です。
その横は2010.11月の仮オープン目指して急ピッチで工事を進めている[加賀屋]です。
景観の問題も有り「天狗庵」跡は取り壊されるでしょう。又、一軒、日本時代の歴史建築物が失われます。北投温泉隆盛のきっかけ、大きく言えば台湾の温泉文化の幕開けを演出した男、「平田源吾」なに思う。
上から映した「天狗庵」

原形をとどめる「天狗庵」の石段

建築中の「加賀屋」の右横が、崩壊寸前の「天狗庵」

「天狗庵」から見た現在の北投の中山路

国立台湾博物館(旧・台湾総督府博物館)

11/02/2010
【建物】1915年(大正4年)。国定古跡。 
【設計】野村一郎 
【場所】MRT台大医院駅

 今日は11/3文化の日だ。私も台湾在住ながら、日本文化に触れるため「現・国立台湾博物館」へ行った。
建物は台湾の行政機関が集まる地域にある228和平公園内に建っている。 228和平公園は大陸から渡ってきた国民党が、一つの事件をきっかけに、当時の台湾知識人を対象にした白色テロの犠牲者を慰霊するための公園となっている。
公園内には、「現・国立台湾博物館」「旧・台湾放送局台北(現・228記念館)」や蒸気機関車などが展示されている。 
 建物の威容を目の当たりにする時、台湾領有後の国家財政の厳しい時期に、よくこれだけのものが造れたものだと感心するのみです。ちなみに1915年(大正4年)に竣工されている。 
 十分に日本人の偉大さや日本文化を感じ取れた1日でした。民主党の仕分人の人々なら、どうゆう評価を下すか興味がある。



台湾民主国国旗

11/04/2010
台湾の歴史のひとこまです。 1895年5月23日に清国人の一部官僚と一部台湾住民が協力し台湾民主国独立宣言を発表したが各国の承認は得られなかった。
北白川宮能久親王率いる近衛師団の進軍が開始されると、傭兵主体の台湾民主国軍隊は半年程度で壊滅した。
 
ガラスケースに収められている為、綺麗に撮れてませんが、なんとも愛らしい図案に感じます。 


いずみこ EMAIL 11/06/2010
なかなか興味深いものがあるんですね。 それにしても、トラが可愛いです。 これなら、平和な国家が築けたでしょうね!

台北賓館(旧・台湾総督官邸)

11/11/2010
【建物】1901年(明治34年)竣工。国定古跡。  台湾総督府の竣工は1919年(大正8年)。 【設計】福田東吾 野村一郎 
【場所】MRT台大医院駅

恋焦がれていた彼女に会える日のような気分だ。睡眠4時間ながら、気力充実、眠気もなく快調な朝だ。
最近まで限定公開されていた「現・台北賓館」が中華民国、建国100年の記念事業の一つとして11/20まで土日を除く平日に公開される事になった。
2010’7/27に塀越しに見える姿をお見せしましたが本日は全姿を御見せすることができます。ただ、私の下手な文章、写真で、素晴らしさをお伝えできないのが残念です。内部写真はフラシュをたくことが出来ないので、良い出来のものがありません。 
 ネオ・ルネッサンス様式の、この美しい建築物を植民地台湾に1901年(明治34)に建設した明治の人々に男のロマンを感じるのは私だけでしょうか。 




この100年間、日本時代、中華民国政府を通し、各国のあまたの賓客を接待おもてなしをした部屋です。

いずみこ EMAIL 11/11/2010 
素晴らしい建物です。 これだけの物が現存している事実が素晴らしい! 日本でも見られないような素敵な歴史を感じさせる建物だと思います。 内部の重厚さも十分に伝わります。 やはり、Pentaxの威力と写真力だと思います。

烏さん EMAIL  11/12/2010
nishidaさん こんにちは。 暫く御無沙汰してましたが、お変わりなく元気ですね。 睡眠不足の眠気も吹っ飛んだんですね。あはは。
お互いに好きなことには目がないです。 洋の東西を問わず、古い建物には厳かさを感じます。

シアトル結婚写真名館 EMAIL 11/13/2010
こんにちは!はじめまして! よかったら私達の台湾の変身・結婚写真館ブログもみてみてくださいね! http://blogs.yahoo.co.jp/seattlephoto888

台湾大学法律学院(旧・台湾総督府台北商業学校)

11/13/2010
【建物】1919年(大正15年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT善導寺駅徒歩10分。中正区徐州路21号。

1919年(大正8)に台湾総督府によって「本島の内外において商業に従事せんとする男子の為」に設立された旧制専門学校(台湾総督府台北商業学校)です。
敷地内には校舎に囲まれてた美しい日本庭園が有り、卒業生の「石橋正嗣」氏や「川平朝清」氏も池の畔で青春を語ったのでしょう。 
※「石橋正嗣」=日本社会党委員長・元衆議院議員、「川平朝清」=NHK沖縄放送協会初代会長

現在、同校舎を使用している「国立台湾大学法律学院」「国立台湾大学社会科学院」は台湾大学法学院(部)から分離したものです。




旧・台北州知事公舎
台湾大学法律学院正門前にあります。
現在はカルチャースクールや喫茶食事ができるスペースとして保存利用されています。このような形で利用されている日本時代の建築物は、台北市内だけでも、数か所あります。


いずみこ EMAIL 11/15/2010
凄い、趣きのある建物が現存しているのですね。 驚きました! このような歴史的遺産を写真に撮れるのも凄いと思います。 お世辞抜きで、写真の色味の良いのも引き立ちます。

martin-nishida 11/15/2010
いずみこさん 赤レンガの色調が南国台湾に非常に良く似合います。早く一緒に撮り歩きましょう。
11/22/2010 
martinさんへ いつも台湾のご紹介ありがとうございます。 今回の「日本時代の歴史的建築物」シリーズは大変素晴らしいものです。台湾人も顔負けするでしょうね。 かつての日本統治時代に、良いものを残してくれたと感動しました。ありがとうございます。

国父史跡館(旧・日本旅館「梅屋敷」)

05/16/2012
 【建物】1900年(明治33年)竣工。市定歴史建築。 
【設計】 
【場所】MRT台北徒歩10分。

台北駅東方500mの中山北路と市民大道の交差点にある国父孫文の記念館[国父史跡館]へ行く。孫文は3度台湾を訪れているのですが、この建物は1913年2度目の来台時に宿泊した日本旅館「梅屋敷」を再現した建物です。 
 
「梅屋敷」は日本人「大和宗吉」が1900年に建築した4面を縁側に囲まれた約50坪の長方形平屋建ての日本旅館である。旧址は現在地より50m南西の地、日本時代は御成町と呼ばれた地にあった。地下鉄工事の為1983年現在地に移築され、1986年11/12日、国父の誕生日に合わせ竣工祝いが行われました。
1946年に[国父史跡紀念館]に、1998年には台北市歴史建築指定、更に[国父史跡館]に命名変更され全体を逸仙公園として保存されています。
館内には、孫文の関係文物史料、写真、サンフランシスコ在時に使用した執務用の机、椅子等が展示されている。

孫文は日本風に言うと姓は孫、名は文である。そして字を逸仙、号を中山と言った。「逸仙公園」は孫文の字からきています。「梅屋敷」の由来通り往時は梅が咲き乱れていたのだろう。

池のほとりでは雨中、女性が微笑みながら水面を見つめています


訪れた時は梅は蕾の状態でした


今回も梅の満開には少し早かった様だ。”もう少し経つと白とピンクの花が咲き綺麗ですよ”、と案内の人が言っていた。



孫文の関係文物史料、写真、サンフランシスコ在時に使用した執務用の机、椅子等の展示物。


床の間に掛けられている額「博愛」は、1913年宿泊時に「大和宗吉」に贈られたものです。


いずみこ EMAIL 01/20/2011
 素晴らしい昔の建物と庭園、これが台湾にあるなんて、驚きです!
良くぞここまで保存されている事に驚きと感謝です。

中山基督長老教会(旧・聖公会大正町協会)

01/16/2011
【建物】1937年(昭和12年)。市定文化財。 
【場所】MRT中山駅徒歩10分。中山区林森北路62号。

市定文化財・(現)中山基督長老教会を訪れる。MRT中山駅から10分程度の距離だ。この一帯は戦前、多くの日本人官吏が暮らした地だ。
現在は沢山の日本人駐在員御用達の飲食店が軒を並べる歓楽街になっている。この一帯で北京語を覚える駐在員が多いので別名「林森大学」とも言われる(ジョーク)。 

教会は四条通り(長安東路)に面して建っている。1917年(大正6年)大橋麟太郎により基督教聖公会大正町教会が設立された。現在の建物は1937年(昭和12年)黒と白を基調とする英国ゴシック様式で建築された。
「聖公会大正町教会」は長安東路と林森北路の交差点南西角に有り、交差点北東角には長安天主堂の対照的な建物が有る。 

黒白のコントラストが荘厳な雰囲気を醸し出している基督教聖公会大正町教会


十字架が無ければ、ただの中華風建築物にしか見えない長安天主堂


中山北路を超え長安西路に入ると古跡認定を受けている日本時代は「台北職業紹介所」「建成小学校」と言われた歴史的建築物が建っている。
 両建物共1921年(大正10年)第一次世界大戦後の戦後恐慌の中で建築されているのですが建物を対比すると政府が教育に力を注いでいたことがよくうかがえる。

全容を移すのが困難なほど立派な当代芸術館、建成国民中学(旧・建成小学校)


建成小学校の隣に建つ台北市身心障害礙福利会館(旧・台北職業紹介所)


この長安路と中山路の南西交差点には有名な名物おじさんのいる「林桶店」がある


なにわの太郎 EMAIL 01/19/2011
大阪に居ながらにして台湾旅行ができる。 ブログの写真を見ながらそう思った次第。 撮影テクニックも並のレベルではありませんね。

martin-nishida EMAIL 01/19/2011
なにわの太郎さん 写真にお褒めの言葉、有難うございます。

新竹に残る歴史建築物

清の時代から栄えた古い町ですが、今はIT関連の工場や企業が集中しているため、「台湾のシリコンバレー」と呼ばれており日本からの進出企業も多い。
冬季の季節風がきわめて強いため「風城」の異名もあり、貢丸湯とビーフンが特に有名です。
 
新竹駅舎 
02/11/2011
【建物】1913年(大正2年)竣工。国定古跡。 
【場所】新竹市中華路2段445号

1893年(明治26年)開業。質実剛健な雰囲気のするドイツバッロク様式の建物です。ここから1時間ばかりの台中駅舎とは少し趣が違います。 


夕闇にたたずむ新竹駅

1917年(大正6年)竣工の台中駅

新竹市政府庁舎(旧・新竹州庁舎) 
【建物】1915年(大正4年)竣工。国定古跡。  
【場所】新竹市北区中正路120号


新竹市美術開拓館(旧・新竹市役所)


台湾菸酒公司新竹営業所(旧・新竹専売局)


新光人壽保険会社 (旧・新竹図書館)
【建物】1925年(大正14年)竣工。市定古跡。  
【場所】新竹市文化街8号


雑居ビル(旧・新竹信用組合)
【建物】市定古跡。
【場所】新竹市大道路130号


なにわの太郎 EMAIL  02/13/2011
一世紀近く前の建築物ですね。 管理がしっかりしてるのか、いまだ堅牢そのもの みたいですね。 大阪・中之島にある名建築物・ダイビルも昨年 取り壊されて建て替え工事中です。 我が国ではどんどん解体されいくのが皮肉 な現象ですね。

martin EMAIL 02/13/2011 
なにわの太郎さん 修理補修技術は日本の方が進んでいるはずなのに、すぐ取り壊す方向に進む日本は残念ですね。 機能性、経済性のみを追求する姿勢から、ぼちぼち方向転換し、新旧を融合させる技術開発をする時期が来ているように思うのですが。欧米では、しっかり古い物が残されていますね。

国家放送文物館(旧・台北放送局民雄放送所)

02/25/2011
【建物】1940年(昭和15年)9/28日放送開始。 
【設計】鈴置良一 
【場所】嘉義県民雄郷寮頂村民權路74号

1937年(昭和12年)、日本は南部進行政策の軍事及び心理操作の為、嘉南平原の広大な水田に電波台、変電所、宿舎などを建設し1940年に民雄放送所を開設した。



206メートルに及ぶT型アンテナの鉄塔を2台設置した(写真左奥の赤白の鉄塔)

NEC電気製造会社が生産したMB-15A型電波発射機

第2次大戦中、米軍の戦闘機の機銃を受けた生々しい弾痕痕

冷却装置

作業机

職員の説明では、地震などにも対応したひび割れ一つない非常に頑丈な造りの建物で今日まで1度も補修をした事が無いのが自慢の一つだと言っていました。全て建設当時そのままです。

頑丈なだけではなく装飾も考えた寄木貼りの贅沢な床です

ビックリな事にこの時代にOA床(床下配線)を採用し、床面、壁面に配線が無い事でした

職員写真

戦後は中華民国政府の「台湾放送局民雄播送機室」となったが日本統治時代と同じく大陸同胞への呼びかけなど軍事色の強い放送をしていた。
現在この機能は圓山大飯店麓の施設に移動している。

九州男児 EMAIL 02/27/2011
残っているのですね、凄い。初めて目にしました。普通の観光情報にはないのでしょうね。

martin EMAIL  03/04/2011
九州男児さま 普通の観光地では無いので情報誌には無いと思いますが館内の説明ビデオには日本語も有るので、興味のある人は行くようですよ。

二.二八記念館 (旧・台湾広播電台放送亭)

03/22/2011
【建物】1934年(昭和9年)竣工。市定古跡。 
【設計】栗山 俊一 
【場所】MRT台大医院駅徒歩5分。中正区228和平公園。

ちなみに放送亭はラジオ局を意味し台湾総督府の支援の下で台北・板橋・台中・台南・嘉・花蓮等に放送局が設置され、台湾放送協会により運営されていた。

歴史的意味のある放送がこの建物でされています。一つは1945年8月15日正午の玉音放送であり(日本がポツダム宣言を受諾して降伏し、第二次世界大戦が終結したことが伝えられた)あと一つは国民党政府統治下の1948年2月28日に発生した二二八事件時に、放送局を占拠した市民が軍艦マーチとともに事件の情報を伝えた。

【二・二八事件】
1947年2月28日に台北市で発生し、その後、台湾全土に広がった当時はまだ日本国籍を有していた本省人と外省人との大規模な抗争。
約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。

2011.2.28.リニュアル・オープンした「台北二.二八記念館」です
(撮影日2011.02.13)


なにわの太郎 EMAIL 03/23/2011
大地震以来ご無沙汰しておりました。 2・28事件を知ったのは、10年ほど前のことでした。 それまでは台湾に関して恐ろしいほど無知だったので、 今から思うと全く恥ずかしい限りです。
初回の訪台の際にお世話になったご高齢の台湾人ガイドさん の場合、知り合いが白色テロによって未だに行方不明のままだ そうです。 政治的には一応の決着が付いているようですが 外省人への憎しみは消えていないみたいですよ。

士林公有市場

04/01/2011
【建物】1910年(明治43年)竣工。市定古跡。  
【場所】MRT剣潭駅徒歩5分。台北市士林区大南路89号。

食べ物の屋台が立ち並ぶ「士林公設市場」と「士林公有市場」は一緒では有りません。
「士林公有市場」は1910年(明治43年)に建築され台北市の古跡認定を受けております。

現在は同所で今年2011年6月完成を目指して改築の真最中です。
2011年6月の完成を目指してかなり忠実に再現されている改築中の建物ですが、なにか趣がちがうな~。 改築された建物も古跡認定をうけるのでしょうか。

改修前


改修後


老松国小(旧・老松小学校)

04/01/2011
【建物】1896年(明治29年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT龍山寺駅徒歩5分。台北市萬華区桂林路64号。

萬華の剥皮寮に隣接する、古い時期に開校された老松小学校


自来水博物館 (旧・水道水源区)

04/02/2011
 【建物】1907年(明治40年)竣工。3級古跡。 
【場所】MRT公館駅徒歩10分。台北市中正区思源路1号。

日本時代は水道水源地といわれた所で特徴のある曲面構造でバロック式の美しい重厚な雰囲気のする建物です。
今は結婚写真やコマーシャルの撮影スポットとして人気を博しております。




臨済護国禅寺と梅屋敷

 04/03/2011
【建物】1900年(明治33年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT圓山駅徒歩1分。台北市中山区酒泉街5巷27号。
 
花博会場の最寄駅MRT圓山2番出口徒歩1分のところに有る「臨済護国禅寺」に行く。
プラットフォームからも黄色い派手な壁が見えるので、迷う事はない。 

市定古跡になっている檜造りの日本式建築「大雄寶殿」

現在は閉じられている日本時代の山門

石碑の裏に寄贈者と年号が刻まれているが、例によってコンクリートで埋められている
昭和17年と岐阜という字が読み取れる

不釣合な中華式山門

寄進したことを記念する石柵に「梅屋敷」の文字が刻まれてます

国父史跡館・逸仙公園(旧・梅屋敷)


東和禅寺鐘楼

04/03/2011
【建物】1930年(昭和5年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT台大医院駅徒歩10分。台北市中正区(仁愛路と林森南路の交差点)

この鐘楼だけがポッツリと建っていると何か心寂しいのですが、横にはおしゃれなオープンカフェや通りを隔てては台大医学院のテニスコートが有り、都心のオアシス的な雰囲気のする場所です。 


台北「西本願寺遺跡」 鐘楼・樹心会館・輪番所

 04/03/2011
 【建物】1923年(大正12年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT西門駅徒歩5分。台北市萬華区中華路1段176号。 跡地は現在「萬華406号」広場となっています。

浄土真宗西本願寺台北別院は賑やかな西門町の付近にあります。終戦後も宗教施設として使用されていましたが1975年に不審火で木造寺院全てを焼失し現在は廃墟となっています。
西本願寺史跡の説明ボードもなく知る人のみぞ知る史跡だろう。 西本願寺別院が有れば当然ながら東本願寺別院も有るはずですが探しても痕跡が無い。


樹心会館

輪番所

鐘楼

往時の姿

烏さん EMAIL 04/03/2011
御無沙汰してました。大震災に関するブログは書いてきたのですが、被害のショックで落込みやっと元気が少し出てきました。 人的、経済的な損失は計り知れなく、いまだに進行している状態です。 ブログ、次から次と凄いですね。こんなに広い空き地は、大事に使う方法を考えてほしいですね。 コメントありがとうございました。

martin EMAIL 04/04/2011
東日本の震災は大変な事になり気をいためております。 「地震・津波・原発・人災」これは、日本人にとっては戦後の復興以上の大事になるのでしょうね。

済南基督長老教会 / 台北国語礼拝堂(旧・台北幸町教会)

 04/03/2011
【建物】1916年(大正5年)竣工。市定古跡。 
【設計】井出 薫。 
【場所】MRT台大医院駅徒歩5分。台北市中正区中山南路3号。

日本基督教団幸町教会は領台まじかの1896年(明治29年)に設立され現在の建物は1916年(大正5年)に建築された。

戦後は「済南基督長老教会」(右側の看板)となったが、国民党政府と一緒に入り込んできた外省人組織の「台北国語礼拝堂」(左の看板)も当教会を利用している。
その為、台湾人と外省人の対立の舞台になった事もあるが現在は仲良く共同利用している。


長老教会北投教堂

 04/04/2011
【建物】1912年(大正1年)竣工。市定古跡。 
【設計】ウィリアム・ゴールド宣教師
【場所】MRT北投駅徒歩10分。台北市北投区中央南路1段77号。

陳氏の資金援助で建設された

北投駅徒歩2~3分の所に陳氏を祀る廟がある
構内は駐車場に利用しているようだ

北投 普済寺(旧・鉄真寺)

04/04/2011
【建物】1905年(明治38年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT新北投駅徒歩15分。台北市北投区温泉路112号。

苔むした階段を登っていくと、日本式の寺にたどり着く。日本時代に「鉄真寺」と呼ばれた真言宗のお寺だ。総督府鉄道部職員の寄付をもとに建立されており鉄道の「鉄」に真言宗の「真」から「鉄真寺」と呼ばれたのだろうか。

戦後は一時廃寺となっていたが普濟寺と改め密宗の寺として現在に至る。 地熱谷の入口を過ぎ次の温泉旅館街の入り口に有るので訪れる観光客が多い寺だ。



合作金庫銀行(旧・台北信用組合)

 04/05/2011
【建物】1927年(大正15年)竣工。市定古跡。  
【場所】MRT西門駅徒歩10分。台北市中山区衡陽路87号。

中小企業向けの資金調達機関として設立された台北信用組合

雰囲気の良く似た台中支店

台湾土地銀行(旧・日本勧業銀行 台北支店 )

04/05/2011
【建物】1933年(昭和8年)竣工。3級古跡。 
【場所】MRT台大医院駅徒歩5分。台北市中正区襄陽路25号。 国立台湾博物館の北側に位置してます。

日本政府は台湾を農作物供給の地と位置づけ、農林業関連事業開発のため日本勧業銀行台北支店を開設した。勧業銀行は農林業への長期融資を行い、その後の農業発展の基礎を作った。
この隣に現在「土地銀行」が使用している古跡認定の「旧・三井物産台北支店」が有る。 


台南支店
【建物】1937年(昭和12年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市中正路28号。

ギリシャの神殿の様なデザインは台北支店と同じだ。「林百貨店」の斜め前に位置してます 


旧・台湾銀行北投宿舎

04/05/2011
【建物】大正年間竣工。市定古跡。 
【場所】MRT新北投駅徒歩15分。台北市北投区温泉路103号。

渓流のせせらぎが聞こえる緑の木々の中に荒れるにまかせた旧・台湾銀行北投宿舎があります。 


かなり広大な敷地が塀に囲まれ、再建される日を待っています

再建計画の看板

星の湯 & 北投不動明王石窟

04/07/2011
北投の伝統有る日本式温泉旅館のひとつ温泉旅館「星の湯」です。残念ながら現在はかなり長い休業中です。
 「北投不動明王」は、「星の湯」の主人が商売繁盛を願って1925年(大正14年)幽雅路吉林巷2号に建立したものです。
「星の湯」は古跡認定を受けていないのですが、不動明王石窟は市定古跡の認定を受けております。

不動明王の御利益は、凡俗全てのことに効果があるとされていますが、特に怨敵調伏・勝負必勝・立身出世・商売繁盛に霊験あらたかだそうです。東部の花蓮の慶修院には弘法大師・不動明王・毘沙門天を祀っているそうだ。
不動明王石窟

長期休業中の星の湯

新北投駅プラトフォームで見つけた可愛い不動明王

菸酒股份有限公司(旧・台湾専売局) 

04/08/2011
 【建物】1913年(大正2年)竣工。国定古跡。
【設計】森山松之助。 
【場所】MRT中正記念堂7番出口前。台北市南昌路1段1,4号。

1895年(明治28年)台湾統治を開始した台湾総督府は1901年(明治34年)財源確保の為、専売局を設立した。専売収入は総督府歳入の64%にものぼり植民地経営の重要な役割を演じた。 
食塩、酒、樟脳、煙草などを専売とし台湾統治の財源とした。
阿片も専売品に入っており当時の台湾社会の特殊性がうかがえる。

時代は遷り現在は民営化された台湾菸酒股份有限公司の本社ビルとして使用されている。ただ民間ビルのはずなのに公安員が入口に必ず立っております。



台湾大学医学院(旧・台湾総督府医学専門学校)

04/08/2011
【建物】1907年(明治40年)竣工。市定古跡。  
【場所】MRT台大医院2番出口徒歩5分。台北市中正区仁愛路1段1号。 
    古跡認定の建物は現在ミュジアムとなり、後方に立派な本館があります。

明治の文豪「森鴎外」の長男「森 於菟」ゆかりの大学です。1924年欧州留学より帰国し母校東京帝国大学医学部助教授を経たのち渡台し1945年の終戦まで台北帝国大学医学部教授を勤めた。 戦後は1947年まで、台湾大学医学院教授・医学部長として在職していた。
戦後、日本人は全て内地に引き揚げなければならなかったのですが国民党政府が必要とする鉄道技術者や教育者などの人材は残されたようです。
当時の「森 於菟」の講義を知る人は中文(北京語)での講義を要請されていたのですが最後まで台湾語で通したようです。本人は北京語も堪能だたそうです。

父親の「森鴎外」も4ヶ月ほどの台湾勤務があります。1895年(明治28年)5月に、初代台湾総督「樺山資紀」等とともに台湾に任じている。親子2代、台湾に縁のある家族だ。


裏庭

台南測候所

 04/11/2011
【建物】1898年(明治31年)竣工。国定古跡。 
【場所】台南市公園路21号。

台湾の気象観測は台湾割譲の1895年(明治28年)から始まっている。初代総督樺山資紀が反乱分子を平定した時点で(1895年)台南に仮測候所が設置された。台湾の軍事、経済、生活を考える上で気
象観測の必要性が重要課題であると考えた台湾総督府は台北、台中、台南、恒春、澎湖の5つの測候所の建設を1897年から始めた。 


台中測候所
昭和初期に建築されたものでしょう
趣が無い

台北郵局(旧・台北郵便局) 

04/12/2011
【建物】1930年(昭和5年)竣工。3級古跡。 
【設計】栗山俊一。 
【場所】MRT台北駅徒歩5分。台北市中正区忠孝西路1段114号。

世相を反映しているのか用途によるものなのか明治大正時代のゆとりのある薫りが殆ど感じられない通信関係の建物です。 
北門の真ん前にあります。 4階部分が戦後建増しされたようだが使用目的は変わらず現在まで郵便業務が一貫して行われている。

内部は3階部分まで吹き抜けの開放的な空間になっている

中華電信博愛路服務中心(旧・台湾総督府電話交換局) 

04/12/2011
【建物】1937年(昭和12年)竣工。市定古跡。 
【設計】総督府交通局逓信部。 
【場所】MRT西門駅徒歩10分。台北市中正区博愛路168号。 

台湾総督府、台湾賓館などに程近い位置にあり、他の荘厳な建築物とは趣を異にする現代的なデザインが採用されております。「台北郵局」同様、4階部分が増築されております。    

当時は内地人の建設会社が請負うのが慣習ですが1940年(昭和15年)に建築された「台北市役所 現・行政院」とこの「電話交換局」は台湾人の協志商会所が施工を請け負った。


烏さん EMAIL 04/12/2011
こまめに動いて良く調べているのに感心しています。日本時代の建物には、古くても威厳があっていいです。こういうのが日本と台湾の繋がりに役立っているんでしょうね。

土地銀行(旧・三井物産 台北支店)

04/14/2011
【建物】1920年(大正9年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT台大医院駅徒歩5分。台北市中正区館前路54号。

10番目の海外店として、1896年(明治29年)開設された「三井物産 台北支店」。 
この建物で砂糖・茶・米・樟脳・食塩等を主に取り扱っていた。現在は隣の台湾土地銀行が使用している。
外壁などは荒っぽい改装をされ、少し哀れを誘います。 隣は、台湾土地銀行、日本時代の日本勧業銀行台北支店です。


司法院(旧・台北地方法院・高等法院) 

04/15/2011
【建物】1934年(昭和9年)竣工。国定古跡。 
【設計】井出薫。
【場所】MRT小南門駅(1番出口)徒歩5分。台北市重慶南路1段124号。

台湾総督府を通り過ぎ重慶南路を南に向かうと薄緑色のおとなしい建物が目に入ります。
国防色に身を固めた司法院です。総督府の壮大さに目を奪われてしまうのですが、しっかり見ると味わいの有る素晴らしい建物です。 総督府と同じく日本の方向を向き、中央塔を持ち、やはり上から見ると「日」という文字になっている。

写真のネットで囲われている部分は戦後増築された部分だ。建物を解体されるよりはましだけれど・・・。 道路の筋向いには「第一女中」がある(2011.3.27記)。 


行政院(旧・台北市役所) 

 04/15/2011
【建物】1940年(昭和15年)竣工。国定古跡。 
【施工】電話交換局と同じ協志商会所(台湾人)が施工する。 
【場所】MRT台北駅(7番出口)徒歩5分。台北市忠孝東路1段1号。

昭和にはいり現代的な設計に変わっております。明治大正期に見られるような日本精神の高揚感を建物からは感じられません。台湾総督府、司法院と同じく「日」の形をしているものの方向は西向きに建っており日本を向いておりません。 

建物の「日」の形は日本の一文字を採ったというほうがロマンを感じるのですが、南国の暑さ湿度対策として風通しの為、中庭を中央に配置したと考えるべきでしょう。

戦後、中華民国政府の台北市役所として利用された建物は現在「当代芸術館」となっている日本時代の「建成小学校」である。(2010.8.14.記)


陸軍聯諠廰(旧・台湾軍司令官官邸)

04/15/2011
【建物】1907年(明治40年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT古亭駅徒歩10分。台北市中正区南昌路1段136号。

土木局水道課長官邸として建築され、その後台湾軍司令官官邸となった。
戦後はある時期「孫立人」司令官の将軍官邸となったが、「孫立人」が部下の中国共産党スパイ事件で解任、軟禁された事により官邸としての役割を終えた。

現在は陸軍軍官倶楽部として利用されている。「孫立人」は1988年まで台中において33年間軟禁された。

裏庭

二二八国家記念館 (旧・台湾教育会館)

 04/15/2011
 【建物】1931年(昭和6年)竣工。3級古跡。 
【設計】井出薫。 
【場所】MRT中正記念堂駅徒歩10分。台北市中正区南海路54号。

重慶南路と南海路の交差点に位置し、南海路の道路沿いには「歴史博物館」「建国中学」がある。「米国文化中心」として紹介されているようですが現在は「二二八国家記念館」と看板がかわっております。
228和平公園内の「228記念会館」とは展示物の傾向が違うようだ。 台湾の教育向上の為の定期的会議や集会を催すために建設された。戦後は米国の新聞社が借用していた。

現在の「228国家紀念館」に至る変遷
1931~1945「台湾教育会館」台湾初の近代的な芸術文化展覧館であった。
1946~1951「台湾省参議会」戦後最も重要な民主主義の殿堂となった。 
1959~1978「米国駐台新聞処」米国の新聞社が借用しメディアの場となる。 
1979~2002「米国文化センター」
台米断交後の新名称 2011’2月28日「228国家紀念館」 
呼称の変遷をみればこの建物が「228国家紀念館」に指定された理由が分かります。

ここまでくれば「植物園」で緑に囲まれ鋭気を養うのも良いだろう。


正面から内部を覗いたところ(工事中) 

中央招待所や台湾省主席官邸(旧・台湾電力社長宿舎)

  04/16/2011
【建物】1910年(明治43年)竣工。市定古跡。  
【場所】MRT西門駅徒歩10分。台北市中正区延平南路119号。

若者の町「西門」から長沙街を西に進むと高級住宅を思わす建物が向き合って建っている。日本時代の「台湾電力社長宿舎」と宋美齢が執務を執っていた「婦連総会」だ。 
戦後は国民党の中央招待所や台湾省主席官邸として使用された。


婦連総会(旧・台北偕行館)

 04/16/2011
【建物】1915年(大正4年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT西門駅徒歩10分。台北市中正区長沙街1段27号。 

戦後は宋美齢が創設した「婦連総会」(婦女反共連合会)が長期間に渡って使用していた。


台北「紀州庵」

 04/16/2011
 【建物】1917年(大正6年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT公館駅徒歩20分。台北市中正区同安街115号。

往時は日本料理店、芸妓館が林立する花街で、三味線のつま弾く音や小太鼓の音が聞こえたのだろう。
今は見る影もないどころか、在りし日の姿を偲べるものはなにも有りません。 日本時代この「紀州庵」は萬華に本店のある有名料理店の一軒だった。保存とは名ばかり朽ち果てるを待つのみです。

撫台街洋楼

04/16/2011
 【建物】1910年(明治34年)竣工。市定古跡。 
【施工】高石組 
【場所】MRT台北駅徒歩5分。台北市中正区延平南路26号。

台北駅からは「台湾鉄路管理局・台湾総督府交通局鉄道部」→「北門」→「郵便局」→「撫台街洋楼」→「中山堂・台北公会堂」→「合作金庫銀行・台北信用組合」と歩けば効率的に歴史建築物の散策ができる。

半纏の展示品

明治期の同じ場所の写真
正面に見えるのは北門

大同の家(旧・台湾銀行頭取宿舎)

 04/17/2011
【建物】1902年(明治35年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT小南駅。台北市中山区愛国西路16号。

MRT小南門駅を地上に出るとすぐに目につく古跡が「大同の家(網球場含む)」と「厳家淦先生故宅」だ。この周辺は官庁、軍関係の建物が沢山あり、公安員が数m置きに配置されております。写真撮影などはマークされており、その行動は他の公安員にマイクで連絡されてます。少し気持ち悪いですね。
 
戦後は雑誌「自由中国」が反共活動の拠点にしていました
門が閉ざされ中は窺えません

厳家淦先生故宅

 04/17/2011
【建物】1915年(大正4年)竣工。国定古跡。 
【場所】MRT小南門駅。台北市重慶南路2段2,4号。

厳家淦は、蒋介石亡きあと蒋経国が総統就任までの1975年から1978年間、総統代行を務めた政治家。公安と警察が警備をしており写真は禁止されました。


北投台湾銀行宿舎

04/17/2011
【建物】大正年代竣工。市定古跡。 
【場所】MRT新北投駅徒歩20分。台北市北投区温泉路103号。 

今は荒れ果てていますが近々再建に着手するようです

建国啤酒廠(旧・日本高砂麦酒株式会社)

 04/17/2011
【建物】1921年(大正10年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT忠孝新生駅徒歩10分。台北市中山区八路二段85號。 

MRT忠孝新生駅を下車すると高い煙突が目に入る。それを目標に歩いて行くと台湾初代樺山総督の冠を付けた公園が有ります。ここも麦酒工場の跡地なのですが今日は少し離れたところに有る台北ビール工場へビールを飲みに出掛けます。 

この工場の前身は台湾ではじめてビールを製造した日本高砂麦酒株式会社です。
紅楼、緑楼、冷凍室とその設備、ボイラー室とその設備、および木造の建物などが古跡指定されており台湾ビールの歴史的発展がみられます。

現在は台北ビール工場となりビヤホール&レストランの営業をしてます。 


農会(旧・北投穀倉)

 04/17/2011
【建物】1938年(昭和13年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT北投駅徒歩10分。台北市北投区大同街153号。

 北投には温泉だけではなく、こんな建物も残されています。現在も農会(農協)が使用しております。

事務所棟
中では執務中です

台南社教館(旧・台南公会堂)

 04/18/2011
【建物】1911年(明治44年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市民権路2段30号。

監察院(旧・台北州庁舎) 

12/18/2011
【建物】1915年(大正4年)竣工。国定古跡。 
【設計者】森山松之助  他に総督府・総督官邸・専売局などの官庁建築が有る。 
【場所】MRT台北駅から徒歩5分(7番or8番出口)。台北市忠孝東路1段2号。 
    台北駅から東へ200m、忠孝東路と中山南路の南東交差点。

台湾省政府衛生処、教育庁を経て1958年より監察院として使用されている。監察院は各種国家機関や公務員を監督・調査及び財政状況・決算等の会計監査を行う国家機関です。


台北州知事公舎
台湾大学法学院正門前にある旧・台北州知事公舎です。
MRT善導寺駅5番出口、延紹興南街を南に10分。 
現在はカルチャースクールや喫茶食事ができるスペースとして保存利用されています。このような形で利用されている日本時代の建築物は、台北市内だけでも、数か所あります。 


忠義国小礼堂(旧・台南武徳殿)

04/18/2011
【建物】1936年(昭和11年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市忠義路2段2号。

訪れたのは暑い時期でしたが建物の中からは「えい」「やー」の元気な掛け声、剣道か柔道の練習をしていたのだろう。 

台南神社社務所
忠義国小の敷地内にあるもう一つの古跡

成功大学(前身・台南高等工業学校)

 04/18/2011
台湾の名門大学、国立成功大学を訪れる。名前は台湾の民族的英雄「鄭成功」にちなんだ。

1931年(昭和6年)に開校した台南高等工業学校が前身だ。 キャンパス内には台湾歩兵第二連隊司令部の3棟の建物が保存され、現在も校舎として使われている。 
第二連隊の司令部として使用されていた「大成館」

本部長官と幕僚の事務室として使用されていた「歴史学系」校舎

「文学館」

台南府城の8つの城門の一つ「小西門」が移築されて保存されている

旧・台南合同庁舎 

04/18/2011
【建物】1938年(昭和13年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市中正路2-1号。

消防局と警察局が使用していた合同庁舎。
現在も台南市消防局第一大隊中正分隊、台南市警察局少年警察隊、台南市警察局婦幼警察隊の看板が掛けられている。 

中央塔には、日本時代から引き継がれている110番と119番の数字が書かれている

嘉南農田水利会(旧・嘉南大圳組合事務所)

04/19/2011
【建物】1940年(昭和15年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市友愛街25号。

台南警察署の前に有る建物だけをみれば何故古跡認定の対象なんだろうと思うくらいなんの変哲もない建物だ。しかしこの嘉南農田水利会を舞台に壮絶なそして人間愛に満ちたドラマが展開されました。「八田与一」という明治男の人生わかけた一大ロマンスです。 


林百貨店

 04/19/2011
【建物】1932年(昭和7年)竣工。市定古跡。 
【場所】台南市忠義路2段63号。 修復作業中(2010.12月現在)

昔の台南の一等地に立つ林百貨店
対面には勧業銀行が立つ

国立台湾博物館(旧・台湾総督府博物館)

04/20/2011
【建物】1915年(大正4年)。国定古跡。 
【設計】野村一郎 
【場所】MRT台大医院駅

国立台湾博物館は行政機関が集まる地区、228和平公園内にある。そしてこの公園には、あと一つ戦後のある事件を引き金に当時の国民党政府が台湾知識人におこなった白色テロ犠牲者を慰霊する「台湾放送局台北(現・228記念館)」がある。
国立台湾博物館の威容を目の当たりにする時、台湾領有後の国家財政の厳しい時期に、よくこれだけのものが造れたものだと感心する。

1913年4/1着工した「児玉総督・後藤民政長官記念館」は1915年(大正4年)3/25竣工した。そして同年の5月、「記念営造物建設会」会長は、この記念館を総督府に渡し名称が「台湾総督府博物館」と改められた。
ちなみに「台湾総督府博物館」(台湾総督府民政部殖産局付属博物館)は縦貫線鉄道開通の記念事業として1908年(明治41)に創立されている。

1903年(明治36)新渡戸稲造の紹介で台湾に渡った川上瀧弥は台湾各地や彭佳嶼蘭嶼、澎湖諸島などの離島を周り、数多くの優れた研究を残し、それによって、それまで西洋植物学界にとって未知の世界だった台湾のベールを取り除いた。
川上の名前が付いている植物は40数種類に達する。 川上瀧弥の名は1897年(明治30)に阿寒湖の尻駒別湾で発見した緑藻に「マリモ」の名をつけた人物としてのほうが有名かもしれない。

川上瀧弥はこの1915年の5月から始まった新館への引っ越しに際し、病状をおし博物館内にベッドを置き、引っ越しの準備をしていたということだ。1915年8/20「台湾総督府博物館」の新館での開館が無事行わた翌日、享年44歳の若さで人生の幕をおろした。 この余りにも壮絶な死に対し総督府は殉職として台北植物園内の建功神社に追祀している。



国史館(総統・副総統文物館)(旧・総督府交通局)

04/23/2011
【建物】1924年(大正13年)。市定古跡。 
【設計】総督府営繕課 森山松乃助 
【場所】MRT・西門駅(3番出口)から徒歩10分 (博愛路と長沙街一段の南西交差点)

行政機関が集中している、中正区の旧・総督府」裏に「総統副総統文物館」が開館された。と言っても新築の建物ではなく、日本時代の1924年(大正13)に建てられた(旧)総督府交通局のリニュアルオープンだ。
 総督府営繕課 森山松乃助の設計によるバロック建築で、内部は西洋の古典様式を取り入れた日本の香りが充満する空間になっている。 
 変遷の多い建物で、日本時代は「総督府交通局」、戦後「行政院交通部」、その後2007年「国史館」、更に3年半の歳月をかけ内部の大修復を行い本年2010年10月10日の国慶日に「総統副総統文物館」として開館された。
上部のピンク色の壁部分は戦後に増築されたと思われる。

現在の館内には総統・副総統が外交の席で諸外国より送られた土産物などが展示されている

台北市身心障礙福利会館(旧・台北職業紹介所)

04/25/2011
【建物】1921年(大正10年)竣工。市定古跡。 
【場所】MRT中山駅徒歩8分。中山区長安西路15号。
 
第一次大戦後の戦後恐慌の中、失業者に職業斡旋や技術訓練を施す為、台北職業紹介所を建した。 戦後台北市衛生局となり現在は台北市身心障礙福利会館として、障礙者の学習と交流の場となっている。

長安西路に面し、長安西路と中山北路の交差点から西へ20m
当代芸術館の隣

台中公園「湖心亭」

【建物】1908年(明治41年)竣工。市定古跡。 
【設計】福田東吾 
【場所】台中市公園路37号-1。

基隆~高雄(打狗)間408.5kが全通し、半年後の1908年(明治41年)10/24縦貫線全線開通式典が台中公園で開催された。貴賓、来賓、1360余名が招かれ盛大な式典が催された。「湖心亭」は式典参列の要人の休息所として設けられたものです。
和式とも洋式とも中華風とも、思えぬなんとも不思議な姿の建物

台中駅

04/25/2011
【建物】1917年(大正6年)竣工。二級古跡。  
【場所】台中市建国路1段172号。

台中駅開業は1905年(明治38年)ですが、写真のメイン駅舎は1917年3/21完成している。
旧台北駅舎が無くなった今は、日本時代の駅舎建築を代表するものです。古跡認定を受けてる駅舎建築は他に「新竹駅舎」「嘉義駅舎」「勝興駅舎」「泰安駅舎」が有る。


台中後駅( 旧・台湾糖業鉄道の台中駅)
昭和を思い出す、いい雰囲気の駅舎

旧・台南愛国婦人会館 

04/25/2011
【建物】大正年間(竣工時期不明)。市定古跡。 
【場所】台南市府前路1段195号 

今回訪問時は工事囲いが取れ奇麗に改修されていた。従前通り台南市立図書館として使用されているのだろうか。
なんの変哲もない建築物なんでパスして隣の果物屋さんの写真を撮った。

莉莉水果店
台湾は南国フルーツが豊富な土地で内でも台南附近には有名な産地が沢山ある。そんな果物を扱って台南で一番古い果物屋さん「莉莉水果店」が「台南愛国婦人会館」の隣に有る。
観光局には「台南愛国婦人会館」よりも、こちらがメインかも知れない。


芝山公園(旧・芝山巌神社跡地)

 07/13/2011
士林地区の「芝山公園」に教育の聖地と言われる場所が有る。
ちなみに広辞苑を見ると「士」=学問、道徳などを身にそなえた尊敬に値する人物、「林」=樹木が沢山集まって生えているところ、とある。地名由来と関係が有るのか無いのか学校の実に多い地域だ。 

国語塾「芝山巌学堂」は「芝山巖惠濟宮」の後殿を使って開設された

 開校3か月後の(1895年明治28年)10月19日には第一期学生7名が卒業してます

芝山巌事件
1896年(明治29年元旦)台北北郊の芝山巌で日本人教師6人と小使1人が土匪に惨殺された事件。 1895年(明治28年)日清講和条約で台湾の割譲を受けた日本は6月に総督府を、そのわずか1か月後の7月には芝山巌恵済宮に国語塾「芝山巌学堂」を開校した。 
これには当時、文部省学務部長心得であった伊沢修二の、教育を最優先すべきとの具申を初代台湾総督樺山資紀が受け入れたのだろう。

日本統治に反対する叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという事は事前に予測されており「芝山巌学堂」の6人の教師達に避難することを人々は勧めた。 しかし教育に命を懸けていた教師達は意に介さず「芝山巌学堂」を立去らなかった。
そして叛乱勢力の襲撃を受けた際には、ひるむことなく教育の重要さを必死に説いたという事だ。このような彼らの教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は芝山巌精神と称され教師の目指すものとされた。
関口長太郎(38歳) 平井数馬(18歳) 楫取道明(39歳) 井原順之助(24歳) 桂金太郎(27歳)中島長吉(27歳)

この事件を機に芝山巌は“教育聖地”と讃えられ、1930年(昭和5年)この地に「芝山巌神社」が創建され六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が祀られた。 当然、台湾人教育者も含まれています。


「芝山巌事件」の舞台となった現在の「芝山公園」入口

国民党の破壊
惠濟宮の住職は、国民党によって破壊されていた六氏先生之墓跡から遺骨を密かに移し、小さな石塔を建てて長い間守ってくれました

国民党の破壊により倒され放置されていた伊藤博文揮毫の「學務官僚遭難之碑」

立て直された「故教育者姓名碑」
台湾人教育者の名も刻まれています
周辺には破壊され放置されている碑が数個あります。歴史の1ページとして修復していません

芝山巌の頂上に建立された殉職「六氏先生之墓」
芝山巖學堂が開設されて百年目の1995年(平成7年)後身の士林国民小学校の卒業生有志によって再建された

「芝山巖神社」の参道跡


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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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