ロマネ・コンティをめぐる「ルロワ家」と「ド・ヴィレーヌ家」

2016年12月12日月曜日

Leroy

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ブルゴーニュの20世紀を振り返る
ロマネ・コンティをめぐるド・ヴィレーヌ家とルロワ家
20世紀を振り返りますと、この100年の間に、我が国における食生活は大きく変わりました。同時にアルコール飲料についても、日本古来の お酒に加えて、ビール、ウイスキー、そしてカクテールといった洋風な飲み物が今世紀前半から飲まれ始めました。しかしワインは、それが 人類にとって一番古い飲み物であるにも関わらず、日本人の生活には縁のないものとして、あまり関心が持たれませんでした。
日本でワイ ンという文化的な洋酒が理解され、少しずつ普及されるには、1970年代まで待たなくてはなり ませんでした。それが今では、ワインの持つ幅広い多様性を、時、場所、目的、一緒に食べる食事等によって変わるヴァリエーションを楽しむ人々が、非常に多く増えています。
しかし、我々消費者がワインを買い求め、栓を抜きグラスに注いで楽しい一時を 過ごせるまでには、ワイン生産者の大変な苦労と努力があってこそ実現するものです。
他のワイン産地ではまねのできない優れたワインの数々を、世に出すワイン生産者「ド・ヴィレーヌ家」と「ルロワ家」についてご紹介します。

ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)  
この畑はコート・ド・ニュイのヴォーヌ村にある、特級の格付けを持つ畑です。
ヴォーヌ村は、北のヴージョ村と、南のニュイ・サン・ジョルジュ の町のそれぞれ有名なワイン産地の間に位置しています。
1.8haの広さで、毎年約 7000本前後(1996年は6101本)の赤ワインを生産しています。この畑でのぶどう栽培の歴史は古く、西暦1232年にシトー派の修道院によって 始められたと伝えられています。畑の名称ロマネ・コンティは、1760年からこの畑を所有したコンティ大公(Prince de Conti)の名に由来します。その後、1795年に売却され、何人かの手を経て、1869年にデュヴォー・プロチェ家(M. Duvault Blochet)が買い取り所有することにな ります。
1906年にその子孫との婚姻で遺産を相続したド・ヴィレーヌ家が現在50%の株を所有し,第二次大戦中の1942年にオ ーセイ・デュレス村に本拠地を持つワイン仲買商、 メゾン・ルロワのアンリが50%の株を取得し、経営に参加。それ以来、両家を代表する 二名での共同経営で運営されています。
現在は ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)の社名で、ロマネ・コンティ(モノポール) と、他にラ・ターシュ、(モノポール)、リシュブ ール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、グラン・エシェ ゾー、エシェゾー、ル・モンラシェ、バタール・モ ンラシェの各グラン・クリュに畑を所有しています。
さて、1945年に不幸な第二次大戦が終わった後、数年間ブルゴーニュ地方のワイン生産者は、戦争中の人手不足やぶどう栽培に必要な色々な物資の欠乏で荒れた畑の修復に苦労をします。 DRCも例外ではなく当時のロマネ・コ ンティの土壌は、手入れ不足から疲弊しきっていました。加えてぶどうの樹齢は古過ぎて(50~60年)果実があまりつかず、生産性が非常に 悪くなっていました。そこで1946年から1951年にかけて、思いきった、ぶどうの樹の植え替えが行われました。その結果、DRCはその名声を取り戻していきます。それを実現させたのは、戦争中の1942年にDRCの株を取得し、経営に参加したアンリ・ルロワが、自身の持つ豊かな資金をつぎ込み、家業であるメゾン・ルロワの経営を疎かにしてまでDRCの経営を優先させ、その復旧に情熱を燃やした功績があったからだと 考えられています。
その後、1950年からド・ヴィレーヌ家の代表オーベル(アンリ・ド・ヴィレーヌの息子)とラルー(アンリ・ルロワの次 女のラルー)二人が両家を代表して対等な立場での共同経営者として、協力していくことに なります。
ちょうどその頃、いわゆる世界的な ワインブームで特に最高の評価を得ているロマネ・ コンティの値段は、うなぎ登りに高くなりました。 しかし二人のワインに対する考え方、DRCの経営についての意見の相違等が、両者の関係をだんだんと険悪なものにしていき、1992年1月のDRC株主総会で採決によりラルーが18年間たずさわった経営からはずれることになります。代わってアンリ・ルロワの長女で、DRCの株25%を相続しているラルーの姉ポーリーヌ・ロシェの次男アンリが新し くルロワ家を代表して共同経営者の一人となります。

Lalou Bize-Leroy(ラルー・べーズー=ルロワ)
メゾン・ルロワの当主ラルー・べーズー=ルロワは1933年にアンリ・ルロワの次女として生まれる。メゾン・ルロワは1868年にアンリの祖父フランソワが、オーセィ・デュレスでワイン の仲買商として事業を起こしたことから始まり、1942年にはDRC社の株50%を取得します。  
その後、DRCの経営も軌道に乗った1980年、アンリ・ルロワは86才で亡くなり、彼が残したDRCの株を二人の娘が相続します。従って現在DRCの株はアンリの長女ポーリーヌ と次女ラルーが25%ずつ持っていることになります。ラルーはDRCの共同経営者として、1992年1月のDRC株主総会で解任されまでオベール・ド・ヴィレーヌと同格の立場で18年間 活躍することになるのです。 
 
さてラルーは3才の頃から父親のそばでワインに接し、ワインの香りや味見が大好きでした。 成長してソルボンヌ大学で学び、ドイツ語を専攻し、他にラテン語、ギリシャ語も得意でした。彼女の生い立ちや現在の人柄を語る上で欠かせないのが、彼女の趣味の山登りのことです。ロッククライミングが大好きで、一流のアルピニストとしても評価されている彼女は、親の反対を押しきり、スイス人のスキー選手で登山家のマルセル・べーズ氏 (Marcel Bize)と結婚しています。

ラルーが家業のワイン取り引きに最初 関係したのは1955年23才の時です。この時、彼女はメゾン・ルロワの共同経営者としてワイン部門の責任者となります。その頃のメゾン・ル ロワは社長の父アンリがDRCの経営にかかりっ きりで、家業のルロワ社にはあまり力を入れておらず実情はかなりお粗末でした。
その頃の彼女はワインテースティングの練習に朝8時にカーヴに入り、夕方5時まで100種類ものワインを試飲したといいます。
1988年、ラルーはDRCの経営、ワインの販売 に従事する一方、同じヴォーヌ村に存在するドメーヌ・シャルル・ノエラを買収します。そして、このドメーヌが所有するすぐれた畑の数々を手に入れ、メゾン・ルロワとは別に、 ドメーヌ・ルロワと名付け、新しい会社を設立します。同時に、ぶどうの栽培をビオディナミ農法に切り替え「ぶどう栽培は土壌が一番大事、そして厳しい剪定、量より質」と いった彼女の理念を実行に移しています。
しかしこの理想のワイン製法は、当然、他のドメ ーヌと比べると生産量が著しく少なくなり、高品質ではあるが、売値に響いてきます。競争相手達からは、「天文学的価格」だと言われ、「マダム・トロ・シェール(Mrs.Too Expensive)と仇名されます。しかし彼女は言います「最高の品質にはどんな値段も 高過ぎることはありません」と。
ドメーヌ・ルロ ワが所有する特級畑
Chambertin
Latricieres Chambertin
Clos de la Roche
Musigny
Clos de Vougeot
Richebourg
Romanee-Saint-Vivant
Corton Renardes
Corton Charlemagne

Aubert de Vil1aine(オベール・ド・ヴィレーヌ) 
1939年生まれ。第二次大戦終了当時、彼の家族はブルゴーニュから西に120キロ 離れたムーラン(Moulins)に住み、父は土地の銀行に勤め、家族を養っていました。
その頃は たとえロマネ・コンティのオーナーでも、ワイン生産だけでは食べていけなかったのです。そしてアンリは1950年に、彼の父親でありDRCの共同経営者であったオベールの祖父エドモン・ド・ ヴィレーヌ(Edmond de Vi11aine)の後を継ぎ DRCの経営にたずさわることになります。
アメリカ留学から帰国した後の1965年からの最初の3年間、彼は主に畑とカーヴでのワイン作りの仕事を分担し、同時にメゾン・ルロワでワイ ン取引(Negociant)の実際を学びます。
1971年の結婚を機会に夫妻は南のコート・シャロネーズの町シャニーに近いブーズロン村に、ワインセラー付きの古い農家と付属するぶどう園を買い、新しい住まいとします。
そこでオベールは遺産 として引き継いだDRCとは別に独自の新しいドメーヌを始め、最高級赤ワイン、ロマネ・コンティとはまったく違う、大衆的な白ワイン用の品種アリゴテの栽培を始めます。
彼はブーズロン産のアリゴテ品種から作られるワインには、他の産地で作られる同じアリゴテ種ワインとは違った一風独特な良さに気付きます。そこで彼は、ブーズロン産のアリゴテに独自のアベラシオンを獲 得するための運動を始め、1979年に新しくブルゴーニュ・アリゴテ・ド・ブーズロンと して独立した原産地呼称証明をラベルに明記することに成功するのです。
アリゴテ種はブルゴーニュ産の白ワイン用のぶ葡萄としては、シャルドネ種に次いで第2位の地位にあり、決して高級ワインの扱いを受けず、販売価格も日常ワインとして2000円前後で買え ますが快い酸味で食欲をそそる 軽快なワインとして知られています。クロ・ド・ヴ ージョでのシュヴアリエの定例大晩餐会では大抵食卓でこのワインが一番最初にサーヴィスさ れます。 
引用:横山 弘和(よこやま・ひろかず)著作

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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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