個人的には、早起きして「虱目魚肚粥」を食べる、夜は台南最大規模の「花園夜市」に行く、観光は歴史好きの私としては、鄭成功、縁の史跡を訪れたいと思っている。
台南の予備知識は、「台北・高雄・台中に次ぐ第4の都市で、1885年に台北に首都が移るまで、政治経済文化の中心地だった」この程度で良いだろう。ちなみに1885年は清国が台湾を福建省から独立した省と定めた年だ。
「台南観光初日」
6:30発の新幹線に乗車、途中(板橋、桃園、新竹、台中、嘉義)の駅に止り台南着は8:18、約2時間弱の新幹線の旅だ。新幹線台南駅は新幹線新大阪駅と大阪駅の位置関係と似ており、およそ台鉄台南駅間は車で30~40分の距離だ。
宿泊はシャングリラHで、駅の裏玄関と言うか駅東側の駅舎真前にあり、目の前は国立成功大学の広大なキャンパスが広がっている。チェクイン後、早速、朝食をとりに街へ出かける。
台南名物の「虱目魚肚粥」(サバヒー)を食べる。「阿憨鹹粥」店はこの「虱目魚肚粥」onlyの店で私はこの粥に油條をトッピングして食べた。味わいは塩味のサッパリしたもので、ガイドブックには小骨が多い魚と書かれていたので、少し恐る恐る食べたのだが、綺麗に身をほぐした物が入っており食べやすく美味だった。
食後の観光は「鹿耳門天后宮」と「正統土城鹿耳門聖母廟」を訪れた。両寺院は数分と離れていない場所に有り、いずれも媽租を祭っている。「正統土城鹿耳門聖母廟」は北京の紫禁城を模して作ったとの説明を受けた。台湾には、ものすごい数の寺院が有るのだが、私の感想では、両者は建物の荘厳さに於いては、双璧を成す物だと思う。壁・天井の細部にわたるまで施された彫刻の立派さには、ただただビックリするのみだ。
昼食は「周氏蝦巻」店で「蝦巻」「蝦団子」「蝦コロッケ」等を食べたがそんなに美味い物ではなかった。
食後はオランダ人が建てた「熱蘭遮城」(台湾城)址の「安平保堡」に向かう。この城は「億戴金城」を築く際の建築資材として取壊されたが、免れた城壁の一部や日本時代に使用されていた建物が残されていた。
台南の夜市は台北と違い広い空き地を利用し、代表的な夜市が曜日ごとに開催されている。「小北夜市」「大東夜市」「武聖夜市」「永華夜市」それから最大規模の「花園夜市」だ。土曜日が開催日の海安路と和緯路の交差点にある「花園夜市」にでかけた。
6時頃に出かけたので比較的スムーズに移動出来たのだが「牡蠣のお好み焼風」のものを食べてる内に歩行が困難なほどの人出になってしまい(ほうほうのてい)でホテルに引き上げた。しかし、しっかりと欲しい食物は手に入れた。
綺麗なトイレが設備されていたのには驚いた。
「台南観光Ⅱ日」おそらく観光客の行かない、地元の人だけが行く場所と思うが「308高地」に連れて行ってもらった。頂上から見る眺めは、砂?の山が連なる、少し不思議な世界だった。以前「屏東」へ行った時に訪れた観光スポット「月世界」の近所だった。頂上で爽やかな風を受けて食べる昼食はまた格別だった。出発前に確認した温度は30℃だった。日本は真冬だ。
私の一押し食事処です。地元の人の推薦で出かけた処ですが、なかでも気にいった店です。 海鮮料理の店。なぜか炒飯がお奨め料理だった。
「台南観光Ⅲ日」
アヒルの色んな部位を湯掻き塩水で味付けしたものを売っている店。私達はわざわざ台南まで買いにいきます。
牡蠣のテンプラが美味だった。台南は海に近いので魚介類が美味しい。
豚・鳥・家鴨などの肉の部位を燻製にして扱っている店(鳥の砂ズリや豚足もいけますよ)
台南発祥の擔仔麺の美味しい店
赤崁楼へホテルから歩いて行った。約5分くらいだった。この城は長い年月(350年)を経ているものの、ほぼ昔の状態が保たれているそうだ。しかし、元のオランダ風の建物に中国風の建築様式がかなり加えられているようだ。室内に最後の日本人市長の胸像が置かれていた。台南市の発展に大変な功績が有ったと書かれていた。
近所には、孔子廟や延平郡王祠があり、食事処も結構揃っており、面白いエリアです。
鄭成功がオランダ人を駆逐してから、台湾の歴史が始まったと言って良い位、台湾にとっては英雄なのだろう、どの古跡を訪れても、鄭成功にまつわる物が置かれている。
日本人にとっては、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国性爺合戦」を通じて身近な人なので、「母親が日本人で幼少の頃は長崎平戸に住んでいた」この程度の情報はわりと知られていると思うのだが、こちらでは歴史で教えていないようだ。英雄に外人の血が半分入っているのは、やはり面白くないのかも知れない。
近所には、孔子廟や延平郡王祠があり、食事処も結構揃っており、面白いエリアです。
鄭成功がオランダ人を駆逐してから、台湾の歴史が始まったと言って良い位、台湾にとっては英雄なのだろう、どの古跡を訪れても、鄭成功にまつわる物が置かれている。
日本人にとっては、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国性爺合戦」を通じて身近な人なので、「母親が日本人で幼少の頃は長崎平戸に住んでいた」この程度の情報はわりと知られていると思うのだが、こちらでは歴史で教えていないようだ。英雄に外人の血が半分入っているのは、やはり面白くないのかも知れない。
シャングリラのコンシェルジュ・マネージャーに大変お世話になった2泊3日の旅だった。
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