ボルドーワイン  Ch.Lafite Rothschild 1990'

2018年6月13日水曜日

Bordeaux Le Medoc

t f B! P L
【大好き印】★★★★
【種類・格付けAOCワイン / Chateau Wine / Medoc Premier Grande Cru Classe
【地 域】Bordeaux
【地 区】Medoc
【村 名】Pauillac
【Cepages】70/CS 13/CF 15/M 2/PV
【所有者】Rothschild家(パリ)
【運営主体】DBR(ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト)
【醸造家】【管理者】シャルル・シュヴァリエ
【ETC.】動画で語るワインレッドの心
【ETC.】1870'プロイセンのビスマルクは普仏戦争終結の条件としてフランス側に支払不可能とも思える賠償金を要求します。フランスは銀行家のRothschildが財力を結集し支払を完了します。これを聞いたビスマルクは拳を机にたたきつけ激怒します。その際にインク瓶が飛び散り机一面を汚した執務用の机がラフィット館に家宝として保管されています。
【ユダヤの国際財閥Rothschild家】 
ドイツのフランクフルトで古物商兼両替商をしていたマイヤー・アムシェルは5人の息子をフランクフルト、ロンドン、パリ、ウイーン、ナポリの主要都市に分散し巨大な金融帝国を築き上げました。
1853年:Rothschild家祖 Mayer Amschelの三男ロンドンRothschild家祖Nathan Mayerの三男Nathaniel Mayerが「Ch.Mouton」を購入。

1868年 : Rothschild家祖 Mayer Amschelの五男パリRothschild家祖James Mayerが「Ch.Lafite」を購入。

エチケット↴
【思い出】20060310  14-8

14-9  エチケット無
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【思い出】ビッグビンテージを完熟状態で頂くと最高
Ch.Lafite Rothschild ⇒ Ch,Moulin Saint Georges 
 20080126  14-10
Ch.Moulin Saint Georges

【思い出】20090411    14-11    苦楽園で花見




14-12~13   2009/4/28 (本多さん預け)



【歴史】
Pauillac村の中で一番小高い丘に位置していたことから、古いガスゴーニュ語 で「小高いところ」を意味する「La Hite」が転じて「Lafite」と名づけられたという。
ブドウの作付けは中世から行われていたが、17世紀にSegur家が「Lafite」の所有者となり転機が訪れた。1670年代から80年代にかけてJacques de Segurがブドウ畑を広げワインの生産を本格化させた。

フランスの宮廷ではギュイエンヌ(ボルドーの旧州名)は田舎というイメージがあり、専らブルゴーニュワインが愛飲されていた。
1760年代、ルイ15世の愛妾Madame de Pompadourは、ワインで王の歓心を買おうとブルゴーニュの後に「Romanée-conti」と呼ばれる畑を入手しようとしたが、conti公に競り負ける。 Pompadour夫人は代わりに「Lafite」を購入することになるがLafiteを大いに気に入りヴェルサイユ宮殿の晩餐会で必ず飲むようになった。これをきっかけにボルドーワインが宮廷で脚光を浴び、中でもLafite は「王のワイン」という名声を得ることになった。

18世紀半ばSegur侯爵には男子がいなかったため、数々のシャトーは4人の娘に分与されLafite はその後、数人の所有者を経て、19世紀前半にオランダ商人のヴィンテーンベルグ家の所有となる。その間もワイン造りは受け継がれ、1855年のパリ万国博覧会で行われたメドック公式格付けでは、第1級格付けの筆頭として最高評価を受けた。
その後1868年8月8日、パリのRothschild家が競売により「Ch.Lafite」 と「Ch.Caruades」を入手し新所有者となり名前も「Ch.Lafite Rothschild」となる。
(Ch.MoutonはロンドンのRothschild家が1853年にを購入)

19世紀末から20世紀前半は苦難の時代であった。
ブドウ畑がアメリカ大陸からもたらされたフィロキセラ害に遭い、第一次世界大戦では働き手の兵役や経済統制により大きな打撃を受けた。大恐慌時代はワイン市場も底値が続いた。
第二次世界大戦でドイツ軍によってフランスが占領され、ロートシルト財閥の財産であることを理由に解散させられが、戦後の1945年末にCh.Lafite Rothschildの所有権を回復し、エリー男爵の下でシャトー再生への道が開かれた。エリー男爵は、ブドウ畑の整備と施設の修繕、シャトー管理体制の抜本的見直しに着手。
その後1970年代にエリー男爵の甥、エリック男爵に運営が引き継がれ、ワイン造りの研究、技術チー ムの人材補充など、シャトー運営に新たな息吹をもたらす。

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趣味として、Wineや台湾の紹介ブログを書いたり、台湾では大阪の食文化を紹介しながら「話せる日本語」を教えています。 30代前半で起業、60で引退、現在は大阪、南国台湾を往復しながらフリーランスな生活をしています。

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